渾カン
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経歴
渾瑊は10代ですでに騎射に長じ、父に従って朔方軍で軍務につき、11歳の時には戦功を立てた。当時の朔方節度使である張斉丘はかつて彼に冗談で「乳母も一緒に来たのか」と言ったという。彼はその後、軍に従って賀魯部を撃破し、石堡城を攻略し、龍駒島を回復するなど、その戦闘ぶりは全軍で最も勇敢であるとされ、折衝果毅に任ぜられた。後に節度使の安思順の命により偏師を率いて葛禄部に深入りし、阿布思部を大破した功により中郎将に昇進した[4][3]。
安史の乱が勃発すると、渾瑊は河東節度使の李光弼に従って河北の平定に出陣し、陣前で叛軍の驍将である李立節を一矢で射殺し、その功により右驍衛将軍に任ぜられた。その後郭子儀に従って西京長安・東都洛陽を回復し、新郷で安慶緒を討伐し、戦後武鋒軍使となった。さらに僕固懐恩に従って史朝義を追撃し、大小数十戦を経て、その功労は諸将の中で最も高く、太常卿となり、実封二百戸を賜った。僕固懐恩が叛乱を起こすと、渾瑊は自らの部隊を率いて郭子儀のもとに帰属し、その幕下に置かれた[5][6]。
永泰元年(765年)、吐蕃の大軍十万が奉天に侵攻し、都は厳戒態勢に入った。渾瑊は二百の驍騎を率いて吐蕃の陣営に突入し、単騎で吐蕃の将を生け捕りにし、続いて軍を率いて吐蕃兵を追撃したが、帰還する際に敵軍でこれを阻む者はいなかった。この戦いで数千の首級を挙げ、功により太子賓客となり、奉天に駐屯した。大暦2年(767年)、周智光が叛乱を起こすと、渾瑊は歩騎一万人を率いて同州を攻略し、華州を平定した。大暦7年(772年)、吐蕃が涇州に侵入すると、渾瑊は涇原節度使の馬璘と合流して討伐に出た。初戦の黄菩原では友軍が先に退却したため不利となったが、その後潘原で吐蕃を邀撃して大いに破り、吐蕃に略奪された人畜を奪還した。大暦8年(773年)、吐蕃の大軍十万が涇州・邠州を寇掠すると、渾瑊は宜禄に伏兵を設け、郭子儀の主力と連携して吐蕃を大破し、略奪された民と物資を取り戻した。大暦9年(774年)、吐蕃が再び边境を侵すと、渾瑊は長武城の守備を担当し、軍の監督と城防工事の築造を行い、幾度も主動的に出撃して吐蕃を大いに破った。大暦11年(776年)、渾瑊は邠州刺史を兼任した。大暦13年(778年)、回紇が太原に侵攻すると、軍を率いて石嶺関に駐屯して北方を安定させ、その後単于大都護となり、東・中二受降城および振武軍等の鎮軍使を兼任した。在任中、北疆は安定し、軍民は彼を敬愛した[5][6]。
建中4年(783年)、涇原兵変が勃発し、反乱兵が長安を占拠して朱泚を帝に擁立すると、徳宗は慌てて奉天に逃れた。渾瑊は家中の子弟と親兵を率いて随行・護衛し、行在都虞候・京畿渭北節度使に任じられた。朱泚の叛軍は奉天を包囲し、雲梁や衝棚などの大型攻城兵器を製造し、昼夜を問わず攻撃を続けた。城中の守備兵は死傷者が相次ぎ、物資や食糧は尽き、徳宗は粗末な米で飢えをしのぎ、ついには御庫の衣類までも取り出して士卒に与えるほどだった。渾瑊は機に応じて対応を変え、守備軍を指揮して様々な攻城手段に対抗した。交戦中、流れ矢に当たってもこれを抜き捨てて力戦し、一歩も退かず、それによって士卒を鼓舞したため、士卒は皆、死を覚悟して戦った。叛軍による一か月余りに及ぶ包囲でも城はついに陥落せず、李懐光が援軍を率いて到着するに及び、朱泚は包囲を解いて長安へ退却した[7][8]。
間もなく李懐光も叛意を抱くようになり、徳宗が南方の梁州に逃れようとすると、渾瑊は朔方節度使・同平章事に任じられ、車駕の出発準備と軍隊の整備を担当した。彼は軍を率いて先行して道を開き、徳宗の梁州への安全な到着を守り、その後、朔方・邠寧・振武・永平・奉天行営兵馬副元帥に任じられた[7][8]。
興元元年(784年)、渾瑊は諸軍を率いて斜谷を出て、武功で叛軍を撃破し、各方面の勤王軍と合流し、李晟の部隊と東西から呼応して咸陽を攻略、最終的に長安を回復し、朱泚の乱を平定した。戦後、論功により渾瑊は侍中に昇進し、実封は八百戸に加増され、河中に戻って鎮守にあたった。 その後、李懐光が河中に拠って叛乱を起こすと、渾瑊は河中・同絳節度使に任じられ、馬燧・駱元光らと兵を合わせて李懐光を討伐した。彼は軍を率いてまず同州を回復し、長春宮で叛軍を大破し、馬燧ら諸部隊と共に河中の叛乱を平定した。戦後、河中の降伏した兵士たちを慰撫し、地方の秩序を安定させた功により、検校司空を加授され、朝廷は彼の五人の子を正員官に任じることを許した[9][10]。
貞元3年(787年)、吐蕃が唐との会盟と和平を求めてきたため、朝廷は渾瑊を会盟使に任じ、平涼川へ向かい吐蕃の相である尚結賛と会盟させた。会盟の際、吐蕃は数万の騎兵を盟壇の西側に伏せ、突然襲撃を仕掛けてきたが、渾瑊は馬を奪って疾駆し唐の領内へ逃げ帰った。副使の崔漢衡ら六十名余りの官員は吐蕃に捕らえられ、唐軍の戦死者は数百人に上った。この知らせが長安に届くと朝廷は大いに驚き、渾瑊は帰還して罪を請うたが、徳宗は彼を咎めず、そのまま河中に戻って鎮守を続けさせた[11][12]。
渾瑊は読書を好み、『春秋』『漢書』に通じていた。かつて司馬遷が自叙を作ったことを慕い、『行紀』一篇を著述したが、その文辞は質実で、決して自らの功績を誇ることはなかった。河中での前後十余年にわたる統治では、人となりは忠誠心が篤く慎み深く、功績は高くとも驕ることがなかった。当時の人は彼を前漢の金日磾に喩え、毎年決まって朝廷に進貢し、政務に勤勉に取り組み、在任中は軍を監督して城防を築き、士卒を訓練し、民を慰撫したため、河中地方は常に安定していた。また、常に徳宗の信任を得て、李晟・馬燧が相次いで兵権を解かれた後も、渾瑊は依然として河中で兵権を掌握し、天寿を全うすることを得た。貞元15年(799年)12月、渾瑊は任地の鎮所で死去した。享年64。朝廷は彼に太師を追贈し、忠武と諡し、布帛や米粟を下賜し、朝政を五日間停止した[11][12]。
人物・逸話
渾瑊は若い頃、汾陽王郭子儀の麾下にあり、いささかも苦労を厭うことがなかった。汾陽王が軍中にあるとき、渾瑊は常にその傍らに侍り、坐席を離れず、夜の酒盛りの酒具でさえ、また溲瓶に至るまで、必ず温めて差し出した。汾陽王がそのわけを尋ねると、「先ほど床に就く折、ずっとこれを懐に抱いておりました」と答えた。汾陽王は心のうちで感じ入り、「この者は教うるに足る」と言って、兵法の韜略を彼に授けたという[13]。
汾陽王郭子儀の足の裏には黒子があった。ある日、咸寧郡王渾瑊に自分の足を洗わせていたところ、渾瑊はその足を手に取って久しく見つめていた。郭子儀が「どうしたのか」と問うと、渾瑊は「私の足にも黒子がございます」と答えた。郭子儀は彼に靴を脱がせて見せさせ、見終わると笑って「お前のものはわしのには及ばぬな」と言った。つまり、渾瑊の福分と寿命は中程度の寿数にとどまり、ついに自分には及ばなかったという意味である[14]。
唐の徳宗が渾瑊に賜った詔書、金鉞、ならびに諸々の詔令文書は合わせて数通あり、そのうち二通は奉天防衛戦の際に下された親筆の詔書である。一通には、「今日、愛卿に宝剣一振りを賜う。上は蒼穹に至り、下は九泉に及ぶまで、軍中の一切の事務は、全て将軍の裁断に任せる」と記されていた。もう一通には、「今日、愛卿に御筆一支と、白紙の授官委任文書一千枚を賜う。功を立てた将士あらば、功の大小に応じて直接記入して授与し、朝廷に報告して裁可を求めるには及ばない。もし緊急の軍情があれば、馬希倩を派遣して奏上させよ。朕は今日、これにて愛卿と別れを告げる」と記されていた[15]。
ある家に一枚の簾が伝わっていた。赤紫色を呈し、人がその簾の後ろに立つと、外から望めば周身に光暈がめぐっているように見えた。この簾は天宝の乱の際に宮禁から流出したもので、もとは宮中の器物であったという。後に渾瑊の家に渡り、ある目利きの朝の重臣がこれを認めて、「これこそ瑞英簾である」と言った[16]。
長安にあった渾瑊の邸宅では、戟門の内側に小さな槐の木が生えており、その幹には銅銭ほどの大きさの洞穴が一つあった。月夜の晴れ渡った後になると、必ず常人の臂ほどの太さがある大蚯蚓が一匹現れた。長さは二尺余り、頸は白く、体には紅い斑があり、縄のような数百匹の小蚯蚓を引き連れて、枝伝いに這い上がっていった。夜が明けると、またすべて洞穴の中へ戻っていった。時に群れなす蚯蚓が一斉に声を発し、往々にして曲調をなすこともあった。学士の張乗は次のように語っている。渾令公が存命の頃、堂の前に忽然と一本の木が地下から湧き出て、蚯蚓がその木一面に隙間なくぶら下がったという[17]。
