新発田藩では700石取りの組頭の地位にあった。藩主からの信任は厚く、秀勝の五女である糸姫を正室に賜った。彼女との間に長男斎(早世)、長女(溝口長重室)、次女(河村彦兵衛室)、三女(南六郎兵衛室)、四女(窪田吉直室)の一男四女を儲けたが、寛永13年(1636年)10月12日に死別した。
その後同藩家老・柿本正方の娘を後妻に迎えて二男三女を儲けた。このうち六女(後妻との間の2番目の娘)が中山弥次右衛門に嫁ぎ、その間に中山安兵衛が生まれた。天和3年(1683年)に中山弥次右衛門が新発田藩から浪人し、まもなく病死したため、遺児の安兵衛を引き取ったが、盛政もその2年後の貞享2年(1685年)に死去した。宝光寺に葬られた。この後、安兵衛は姉の嫁ぎ先である長井家へ移り、さらに19歳のときに江戸へ出て剣豪として名をあげ、赤穂浅野家家臣の堀部金丸に婿入りすることになる。
なお溝口家の家督は次男・政俊に継いだが(長男は夭折)、のちに政俊は新発田藩から浪人し、溝口姓を捨てて上田と改姓している。