牛進達
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祖先は隴西の出身で、後に濮陽の雷沢に移住した。曾祖父の牛定は、北魏の定州刺史・上柱国・平原県公に任ぜられた。祖父の牛双は、北斉の鎮東将軍・淮北太守を務めた。父の牛漢は、清漳県令であった。
隋末には李密の麾下で将軍として仕え、唐の高祖武徳2年(619年)閏2月19日、王世充が唐の谷州九曲(現在の河南省宜陽県)を侵犯した際、呉黒闥とともに秦叔宝・程咬金に従って出陣し、王世充の猜疑心を直言して彼を裏切り、唐に帰順した。その後、牛進達は秦叔宝・程咬金とともに李世民の麾下で将軍として仕え続けた。
唐の太宗貞観元年、右武衛中郎将として魏城県男に封ぜられ、食邑三百戸を賜った。貞観7年(633年)、嘉州・陵州の僚族が反乱を起こすと、唐の太宗李世民は邗江府統軍の牛進達に命じてこれを撃破させ、8年には左衛将軍に昇進した。当時、吐谷渾が湟中を侵擾したため、牛進達は鄯善道行軍副総管として功績を挙げ、左武衛将軍を授けられ、侯爵に進封された。
貞観12年(638年)、吐蕃の賛普ソンツェン・ガンポが軍を率いて唐の松州を侵犯すると、8月29日、牛進達は闊水道行軍総管として侯君集・執失思力に従って吐蕃への反撃に参加した。9月6日、牛進達は夜襲をかけて吐蕃の陣営を攻め、数千人を斬った。吐蕃は大敗を喫した。
貞観14年(640年)、牛進達は交河道行軍総管として、侯君集・契苾何力・薛万均に従って高昌を滅ぼし、功績により琅邪郡公に転封され、食邑三千戸を賜った。
貞観19年(645年)、牛進達は唐の太宗に従って高句麗遠征に参加し、検校右武候大将軍として巡警を総督した。駐蹕山の戦いでは、長孫無忌とともに奇兵を率いて高句麗の大将・高延寿・高恵真の退路を断った。
唐の太宗は貞観21年(647年)、牛進達を滄海道行軍大総管とし、萊州から海路で出兵させ、陸路の遼東道を進む李世勣と挟撃して高句麗を攻撃させた。7月、牛進達・李海岸の軍は高句麗国内に進攻し、大小百余戦に及び、すべて勝利を収め、石城を攻略した。積利城下に進軍すると、高句麗兵一万余りが迎撃してきたが、李海岸がこれを破り、二千余人を斬った。牛進達は左武衛大将軍に昇進した。
永徽2年正月16日、雍州万年県宣陽里の邸宅で逝去。享年57歳。左驍衛大将軍・幽州刺史を追贈され、諡号は「壮」、昭陵に陪葬された。
夫人は河東の裴氏で、夔州長史・澄城公の裴神安の娘であり、牛進達に先立って逝去した。息子は七人:牛師赞・牛師度・牛師尚・牛師友・牛師徳・牛師明・牛師敬。
