玄鎮健
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文壇活動
玄鎮健が文壇に登場したのは、父の従兄弟である玄僖運の紹介により、1920年に雑誌『開闢』(11号)に掲載された「犠牲花」である。しかしこの作品は習作の域を出ないものであったため、一般的には「貧妻」が玄鎮健の処女作とみなされている。「貧妻」が高い評価を得たことで、徽文学校出身の青年グループである朴鍾和、羅彬、洪思容、李相和、朴英熙らと共に雑誌『白潮』の同人となり、「酒を勧める社会」や「堕落者」などを発表した。その文才は廉想渉に激賞されるほどであった。
1920年には朝鮮日報社に入社し、その後1925年には東亜日報社に移籍した。1936年、東亜日報の社会部長であった玄鎮健は、ベルリンオリンピックのマラソンで優勝した孫基禎の写真から日章旗を抹消した事件(日章旗抹消事件)に関与したとして起訴され、約1年間の獄中生活を送った。出獄後、言論界を去った。
玄鎮健は積極的に抗日運動には関わらなかったものの、日本人との交流を避け、朝鮮人との親睦を深めたとされる。兄の獄死も影響し、彼は最後まで反日思想を固く守った。1943年4月25日、死去した。
年譜
- 1900年9月12日:慶尚北道大邱に生まれる。
- 1912年:渡日し、成城中学校に入学する。
- 1915年:李順得と結婚する。
- 1917年:成城中学校を卒業する。
- 1918年:上海の滬江大学ドイツ語専門部に入学する。
- 1919年:帰国し、ソウルの鍾路区寛勲洞52番地に移り住む。
- 1920年:朝鮮日報社に入社する。
- 1921年:『白潮』の同人となる。
- 1923年:『東明』の同人となる。
- 1924年:三兄の鼎健が検挙される。
- 1925年:娘の和寿が生まれる。東亜日報社に入社する。
- 1926年:鼎健が獄死する。
- 1936年:日章旗抹消事件で起訴され、1年間服役する。
- 1937年:出獄し、西大門区付岩洞325番地に転居する。
- 1941年:養鶏を始める。
- 1943年4月25日:逝去。