親忠・長親の御前で元服し、親忠より偏諱を賜り忠輔と名乗った。「石川家の本荘である小川(安城市小川町志茂)の伯父康長と計って、野寺本證寺その他の地侍を安祥松平家の御麾下となした」とされ、忠輔は三河の本願寺門徒の武士を安祥松平家に仕えさせ、松平家発展の基礎を築いた功臣の一人である。
主君信忠は『不器用者(統率者としての器量の無い者)』(大久保忠教の『三河物語』より)と評され、暗愚・強情な人物であったため民・百姓から家中・松平一門衆まで信忠に慕わず、城に出仕しない者まで多く現れたと伝えられる。忠輔は「主君信忠に城外に美人がいると告げ、その言葉に誘われて外に出た信忠を捕まえ大浜称名寺に監禁した」との逸話も伝えられる。『松平由来書』によると信忠は、大永3年(1523年)一門等による協議内容を酒井忠尚に告げられ、その意を受け入れ隠居し、家督を嫡男清康へ譲渡した(三河国幡豆郡大浜郷に34歳にして隠居・出家)とされる。
弘治3年6月28日(1557年7月24日)、死去。