(1847年(弘化4年) - 没年不詳)本名、桜井惣兵衛。
名古屋七間町の料亭丸惣の主人桜井惣七の次男に生まれる。17、8歳の頃より素人浄瑠璃を始めて豊沢玉三郎に従い、19歳の時に愛玉(あいぎょく)の名で初めて素人温習会に出演。その後も名人諸氏らが名古屋に来る度に稽古を請うなどして熱心に修行に励んだが、父の病没後は料亭の跡継ぎを嫌って旧名古屋藩主徳川侯の家老職渡辺家に仕えた。維新後、遠ざかっていた浄瑠璃に再び没頭して、専ら四代目土佐太夫の下で研鑽を積んだ。この間、名を愛玉から豊竹巴名太夫(はなたゆう)、豊竹玉太夫と変遷、その後、ついに浄瑠璃を本職としてからは竹本浪越太夫(なこしたゆう)に改め、1895年(明治28年)に五代目竹本土佐太夫を継いだ。
浪越太夫の時代に自ら見出して弟子にした永田なか(当時13歳)は、のちの豊竹呂昇。