竹沢弥七
上方の義太夫節の三味線方の名跡
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初代
二代目
三代目
四代目
五代目
六代目
六代目 竹澤 彌七(生没年不詳)
はじめ五代目の門下で瀧澤藏一、のち竹澤瀧藏を経て、文久2年(1862年)に六代目を襲名。
七代目
八代目
九代目
十代目
十代目 竹澤 彌七(明治43年(1910年)9月12日 - 昭和51年(1976年)10月24日?)
京都先斗町のお茶屋の子として生まれる[4]。本名は井上一雄。大正6年(1917年)九代目に入門、翌年竹澤一雄を名乗って京都竹豊座で初舞台を踏み、大正8年(1919年)には三代目竹澤團二郞を襲名した。その後六代目竹澤團六の門下になり文楽座入り。昭和11年(1936年)には八代目竹本綱大夫らと新義座の結成に参加するが、2年後綱大夫と共に文楽座に復帰して七代目竹澤團六を襲名[5]。昭和22年(1947年)に十代目を襲名した。
昭和34年(1959年)には新橋演舞場で八代目松本幸四郎らと歌舞伎と文楽の提携による『日向島』を試演[5]。八代目綱大夫との相三味線は以後綱大夫が死去する昭和44年(1969年)まで続いた。昭和46年(1971年)紫綬褒章。昭和47年(1972年)人間国宝に認定。昭和50年(1975年)に毎日演劇賞と文化庁芸術祭賞、翌年には日本芸術院賞[6]を受賞した。
1976年10月23日に失踪を遂げ、同月30日に京都市伏見区の丹下ダムで遺体が発見された[7]。検視の結果24日頃に琵琶湖疏水に入水自殺したものと断定された。前年「思うように三味線が弾けない」と出演に穴を開けることがあり、失踪の一ヶ月前にも市川猿之助から『雙生隅田川』の作曲を褒められるも「この作品は弥七の一生で最低の作品や」と漏らしていたという[4]。山川静夫原作・鶴澤清治節付による創作浄瑠璃『弥七の死』は、この十代目が長年の相三味線だった八代目綱大夫を失ってから自殺に至るまでの晩年の苦悩を描いている。