関西学院学生時代、神戸新川の貧民窟で活動する賀川豊彦の元へ通った。また、神戸YMCAにて末包敏夫と共に会員向けに市民大学講座を企画し、一郎は知名の士との交渉を担当した。講師には賀川豊彦、河上丈太郎、有島武郎、厨川白村、武者小路実篤らがいた。特に有島とは親しくなり共に旅行をしたり色紙(濱阪の遠き砂丘の 中にして 侘しき 我を 見出つるかな)を貰っている。
1937年パリ万博からの帰国後は、巴里会の一員となった。また、共に巴里会の会員であった相羽有、三島海雲、木下乙市、伴野文三郎、門倉国輝等と十余名で「セルフ・メード・マンの会 / Self Made-man Society」(SMS) を作り親しく交流している。
出典:「曲面夢中 箱木一郎追憶集」pp4-5、p35、pp69-71、 「あみ・ど・ぱり」1938年6月号p21, 1939年6月号p18 ECHO