箱館焼

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箱館焼(はこだてやき)は、幕末蝦夷地安政4年(1858年)に創始された陶磁器である。蝦夷地ではアイヌ文化期以降、土器の生産が途絶し、陶磁器はもっぱら本州方面からの交易品に依存しており、近代北海道における陶磁器生産の試みは箱館焼が最初である。

嘉永6年(1854年)の箱館開港以来、箱館には居住する外国人も増え、箱館は異国情緒豊かな町に変わっていった。この時期になると、箱館奉行所は内地からの移民を奨励した農業開拓を試みはじめており、箱館周辺の開墾が進んだ。また、安政3年(1857年)には蝦夷地の産業振興のため産物会所を設置し、養蚕・製紙・製陶などの産業の奨励・誘致・融資の便宜を図った。また、洋式の近代技術を導入して西洋型船の建造や造船・製鉄などを行なった。これらは明治維新後の開拓使による官営事業のさきがけともなった。

蝦夷地での陶磁器生産も産業振興策の一環として箱館奉行所が計画したものであった。箱館奉行所は陶磁器生産に当たって、江戸の薬園掛渋江長伯の庭焼をしていた石原寿三郎に蝦夷地在住を命じ、陶磁器生産の計画に当たらせた。石原は東濃・瀬戸方面に直接赴き調査を行ない、美濃国岩村藩から陶工を招いて陶磁器生産を開始させた。このようにして創始されたのが箱館焼である。アイヌ文化期に内耳土器が消滅し、以後すべての陶器を本州からの移入品に頼るようになってから、実に数百年ぶりの北海道窯業の「復活」であった。

なぜこの時期になって北海道窯業の復活が計画されたのであろうか。これにはやはり、ロシア帝国の南下に対する防衛目的とした蝦夷地への移住民の増加による日用品の不足があげられよう。当時の蝦夷地で使用されていた日用品はほとんどが本州からの移入品であった。また、幕末にはすでに瀬戸有田などは大量生産・安価供給の体制を持っていたが、なにぶん遠隔地のため価格は高価とならざるを得ず、自給自足型の産業を育成する必要があったのである。

箱館焼創始の背景

美濃国岩村藩は、美濃国駿河国の一部を支配していた三万石の小藩であった。岩村城は日本三大山城ともいわれ、美濃と信濃の要衝に当たることから戦国時代には織田信長武田信玄との対立の最前線であった。江戸時代に入ると、徳川家康譜代の家臣である大給松平氏松平家乗が岩村藩に封じられている。大給松平氏は、家康の5代前の松平家当主であった松平親忠の次男松平乗元を祖としており、徳川宗家とは密接な関係にあった。このように徳川家譜代の大名が代々統治したのは、岩村という地がそれだけ重要視されていたことを示している。その後約260年の間、岩村は東濃地方の政治・文化の中心地として繁栄した。しかし、幕末期には他の諸藩と同じく財政的に逼迫していた。このような状況の下で、岩村藩は1857年、箱館奉行所の依頼により、庄屋問屋をつとめていた足立岩次とその配下の為治を蝦夷地に派遣している。

箱館焼について、『北海道史』では、「陶工為治岩次の二人出願し…」というように、あくまで為治と岩次の個人的な出願として描かれており、また、結果的には箱館焼の生産は失敗してしまったことから、箱館焼に関する文献などでも二人の個人的な事業であるかのようにされている場合がほとんどである。

問屋庄屋であった足立岩次が、蝦夷地に関する情報も非常に限られており、理解もまだ乏しかった幕末の時期において、気象条件も悪く失敗する危険性も高い蝦夷地での陶磁器生産を藩の援助に頼ることなしに個人的な事業として成り立たせることが果たして可能だったかどうかについて、塚谷晃弘・益井邦夫1976『北海道の陶磁 箱館焼とその周辺』によれば、当時の岩村藩主松平乗喬が若くして亡くなったため、幼少の世嗣(松平乗命)が相続したが、このため大名の義務である参勤交代ができず、その代わりとして蝦夷地開拓政策の一環である窯業部門を岩村藩が引き受ける旨幕府に願い出たためとしている。この真偽は定かではないが、箱館奉行所が陶磁器生産を岩村藩に依頼し、岩村藩が為治・岩次を推挙したことは確かである。そして、実際に箱館奉行所は石原寿三郎を瀬戸常滑美濃方面へ派遣させている。また、岩村藩は箱館焼の製造開始後に、藩士三田官兵衛を見届役としてたびたび派遣していることからも、蝦夷地での陶磁器生産事業が個人的なものではなく、箱館奉行所の依頼を受け岩村藩が深く関与した事業だった。

箱館奉行所の陶磁器生産の依頼に対し、為治・岩次は「新規窯築き候儀は、多分之損毛相立候儀ニ付、中々以て永続方不行届候間、御請仕難き旨申上候」として断っている。しかし、結局は資金を融資してもらう条件で説得に応じることとなった。そこで、安政3年(1857年9月に岩次は早速箱館に出発し、箱館近辺で陶土を採取し、国元に持ち帰り試作品を焼いたところ「至極宜敷品」が完成し、評判も上々であったので、蝦夷地での陶磁器生産の見通しが立ったことを確信した。こうして、安政4年(1858年4月、岩次は45人の人夫を引き連れて窯場の普請にとりかかった。こうして数百年ぶりの北海道窯業「復活」の端緒が開かれたのであった。

箱館焼の経営と失敗

箱館焼失敗の原因

参考文献

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