蒙韃備録
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概要
本書は長らく「孟珙撰」と伝えられてきたが、清末民初の学者である王国維は孟珙がモンゴル帝国への使者となった記録は存在しないこと、『齊東野語』巻19に「都統司計議官趙珙」なる人物が河北に赴いたとの記載がある事に注目し、実際の撰者は趙珙であると指摘した[1]。また王国維は、本文中に「去歳庚辰年(1220年)」とあることから編纂年は嘉定14年(1221年)のこととし、趙珙は同1221年に鉄門関でチンギス・カンと面会した南宋の使者の荀夢玉の副使であったと推定する。そして、何らかの理由で荀夢玉に動向できず中国方面におけるモンゴルの総督府(燕京)に留まった趙珙が収拾した情報こそが『蒙韃備録』の内容とする。王国維以後、趙珙撰者説は定説となっている[1]。
内容としては、当時のモンゴル帝国の情報を立国・韃主始起・国号年号・太子諸王・諸将功臣・任相・軍政・馬政・糧食・征伐・官制・風俗・軍装器械・奉使・祭祀・婦女・燕聚舞楽の17項目に分けて説明している[1]。本書は『古今説海』『歴史小史』『叢書集成簡編』等に収められて伝わったが、現在では王国維が校訂を行った『蒙古史料校注四種』所収の『蒙韃備録箋證』が広く用いられている[1]。
内容
- 立国…韃靼(モンゴル)の起源についての説明。当時のモンゴル人を黒韃靼・白韃靼・生韃靼の三種に分類する事が他史書に見えない特徴である。
- 韃主始起……韃主(チンギス・カン)についての説明。チンギス・カンの生年にかかる貴重な記録を伝えるが、「幼い頃金朝の捕虜となった」という他には見えず信憑性に疑問のある記述も見える。
- 国号年号……モンゴルの用いる国号・年号についての説明。モンゴルには当初文字制度がなかったが、趙珙の滞在時にはウイグル式モンゴル文字を用いるようになっていたことを伝える。
- 太子諸王……チンギス・カンの親族についての説明。チンギス・カンの四人の弟、五人の息子、七人の娘について解説する。コルゲンを「龍孫」とするなど、他史料に見えない表現もある。
- 諸将功臣……チンギス・カンの臣下についての説明。ただし、中央アジア遠征に帯同中の諸将には全く触れられず、主に燕京で中国方面の統治を担当するムカリらについて述べられる。
- 任相……モンゴルに登用された被征服民についての説明。耶律禿花を筆頭に、この頃は契丹人や女真人が多いことを伝える。
- 軍政……モンゴル軍の軍政についての説明。ほぼ文書なしに元帥から千戸・百戸・牌子に至るまで伝令によって通達を行っていたことを伝える。
- 馬政……モンゴルの馬についての説明。モンゴル人の馬の飼育、利用の仕方について伝える。
- 糧食……モンゴル軍の糧食についての説明。馬1匹を持つモンゴル兵は羊を6-7匹帯同するのが常であり、これで以て糧食を補っていたと伝える。
- 征伐……モンゴル軍の周辺諸国への出兵、特に金朝との戦争の経過についての説明。
- 官制……モンゴルの制度についての説明。官制の名称は多くを金朝から引き継いでいる事や、ジャルリグ(聖旨)による伝達など独自の制度についても伝える。
- 風俗……モンゴル軍の風俗についての説明。老人を軽んじ若者を尊ぶことなどを伝える。
- 軍装器械……モンゴル軍の衣装等についての説明。チンギス・カンが「一白旗九尾(現在で言う「テリーン・トゥグ」)」を用いていたことを伝える。
- 奉使……モンゴル軍より各国に派遣される使者についての説明。当時のモンゴルの使者は礼文は「甚だ簡」で言辞も「甚だ直」であったと伝える。
- 祭祀……モンゴル軍の祭祀についての説明。羊骨を用いて吉凶を占っていたこと、モンゴル兵は天地を厚く敬うことから転じて雷鳴を恐れていたと伝える。
- 婦女……モンゴルの婦女についての説明。モンゴル人が遠征時に貴賤を問わず女性を伴っていたことを伝える。
- 燕聚舞楽……国王ムカリが楽団を随行させ宴会を開いていたことを伝える。