薗鑑三郎は幕臣で、維新後に名を鑑と改めた。文久元年12月、蕃書調所英学稽古人世話心得に任ぜられ、のち教授手伝並に進んだ。さらに慶応3年には築地の英式海軍伝習所における翻訳係を務めている。維新後は駿河へ下り、沼津兵学校三等教授として数学と英語教育に従事し、外山正一と並び称された。のち明治新政府に召され、正院七等出仕兼五等議官、さらに判事へと任官した。
明治2年ごろより明治政府は静岡学問所・沼津兵学校の人材引き抜きを行い、明治3年には西周・伴鉄太郎・乙骨太郎乙と並び三等教授薗鑑三郎らが次々に沼津を離れた。薗は乙骨太郎乙・高島茂徳らとともに英語教育を担当していた。
薗には沼津兵学校での逸話がある。性格は磊落で服装に無頓着であり、貰った月給の紙幣を本に挟んだまま教室へ持ち歩いていたという。ある日修業時に紙幣を落としたが気付かず、生徒に「何か落としましたよ」と言われると「拾ってこい」と激昂し、生徒が持ってくると「これは僕のだ」と再び剣突を食らわせひったくるようにして受け取ったという。しかしその人柄は善良で親切で、生徒から深く尊敬されていたと伝わる。
明治7年には正七位・正院(太政官)七等出仕を務めた。後に判事へと任官した。墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。