諸国の国司を経た後、勧修寺流の子弟の常として実務官僚としての実績を積み、後白河院の信任を得て三事兼帯を果たす。これは兄の吉田経房・九条光長と並ぶ栄誉であり、三兄弟としてのそれは古今に類例のないことと賞賛された(『山槐記』元暦元年9月18日条)。
後白河院の傍にあって実質的に院伝奏の任に当たり、特に文治年間には頻繁に鎌倉幕府との連絡役を務めていたことが『吾妻鏡』にも記録されている。文治5年(1189年)7月に参議に任ぜられ、建久6年(1195年)1月には正三位に昇るが、同年11月に薨去。享年47。
文治3年(1186年)には造東大寺長官に任じ、東大寺の復興事業にも携わっている。また日記として『山丞記』を残している。