箭溪地区の南西に位置する標高100メートル(比高90メートル)程の小高い山の山頂部の存在する。標高はあまり高くないものの、その急峻な地形は天然の要害と化している。また、鳥取城の後背地に当たる要衝の地でもある。城主の塩見氏は南北朝時代には一族と見られる塩見源太が知られているが、築城年代を南北朝期と見るのは早計であり、慎重を要する。城の縄張りから見ると戦国時代の築城ではないかと考えられている。関係史料は皆無といってよいほどであり、その詳細は不明な点が多い。天正年間、羽柴秀吉の鳥取城攻めの際に落城したと伝えられている。