赤松朝村(円空)が、綽如上人の時に、摂州河郡波花ノ庄杭瀬村(尼崎)に建立。
永徳元年(1381年)、播磨ノ國宍粟郡野村ノ郷柏葉ノ庄御名村に移転。
応永14年 (1407年) 、円空、宍粟郡御名村に西光寺を開基す『播磨国末寺帳』
西光寺の開基は、寺伝『順譜』によりますと、六十二代村上天皇の子孫、赤松類族廣瀬遠州ノ守師頼の嫡男、出羽ノ守清康(〜1395)の長男、廣瀬朝村(1350〜1407)とあります。
この朝村は、清康の長男ではありますが、実は赤松類族の宇野新太夫為助曽孫であり、清康の養子となったことがわかっています。
しかし、朝村は多病にして公務を継ぐことができず、父清康を諌めて、赤松筑前ノ守の四男である則親(1357〜1411)を長女の婿とし、庄山城より長水城に入り廣瀬土佐ノ守と改め、家督を清康より相続しました。
朝村は出家して比叡山に登り、圓空と改めて、天台宗の奥義を修学するも心の霧は晴れませんでした。そのため、比叡山を降りて、本願寺の第五世綽如上人(1350〜1393)にまみえて真宗の深義を聞き開き、心の疑い去って真宗の厚観に基づいて、常随眤勤の者となりました。そして、永和三年(1377)二月四日の法場会に於いて御門主の左に列座して、西光寺と称しました。その後、当時赤松家の所領でありました攝刕(州)河辺郡波花ノ庄杭瀬村(尼崎)に一宇創立して西光寺精舎とし寺住しました。その後この地に由緒を残し置き、永徳元年(1381)二月九日、廣瀬則親義弟の親しみによって播磨ノ国宍粟郡野村ノ郷柏葉ノ庄御名村(現在地)に、圓空を移し、一宇建立して、攝刕山西光寺と称しました。このような由縁をもって、赤松類族廣瀬・宇野家の菩提所となり、境内並びに祭掃料を寄付されました。これをもって攝刕山西光寺の開基とし、以来、法燈連綿として、本年(令和六年)をもって、六百四十三年の伝燈を受け継ぐ次第です。
時に圓空、應永十四年(1407)十月六日、五十八歳をもって示寂され、西光院圓空律師と号しました。
第二世圓琳(1396〜1492)は、圓空の嫡男で、十四歳で継職し、以来八十五年の長きの、さにわたり寺住しました。その間、本願寺第八世蓮如上人に、父である圓空の生像を願い、聞き届けられ、寛正三年(1462)五月二日、圓空の遺像御自讃染筆され、六字の名號、蓮如上人御常持の阿弥陀経御和讃五首真筆・宗祖の母である吉光女の御遺像を与えられ、拝領しています。圓琳、明應元年(1492)八月十一日、九十九歳で示寂されました。
第三世空珎(1444〜1539)は、四十九歳で継職し、以来四十七年間寺住し、天文八年六月六日九十六歳で示寂されました。この代は、天下兵乱につき、不詳とあります。
第四世唯了(1492〜1584)は、四十八歳で継職し、四十五年間寺住しました。この間、宇野民部太夫祐清殿より、表門造立、村上天皇の御紋であるから永く用うの口碑あるため、菊の御紋金紋にして彫刻、御寄付されています。この紋は、今も、山門蛙段に受け継がれています。時に天正十二年正月七日に九十三歳で示寂されました。
第五世了海は、元亀元年(1570)よりおこりました織田信長と本願寺の大坂石山合戦に、播州の門徒と共に顕如宗主のもとへ参じた様です。その時の顕如宗主と丹波ノ守澄忠との戦況報告が、今も残っています。十一年におよぶ石山合戦講和の後、羽柴秀吉にて、天正八年(1580)五月九日、長水落城し、千種にて自害された字野下総守政頼の位牌(信照院松山専哲大居士)が、位牌堂に安置されています。第五世了海(1534~1591)は、五十一歳で継職、寺住七年、天正十九年五十六歳で示寂されました。
時は流れ、第十六世玄了(1730~1805)は、三十四歳で継職、寺住四十二年でした。その間、寛正十二年(1800)五月六日、倉庫より出火、土蔵共に焼失しました。この時、什物、書類、過去帖等を焼失しましたが、本堂への類焼は免れたようです。玄了は、懺悔の日々を送り、焼け残った書類を調集し、別本の古系譜が有ることを伝え聞き、苦心して記しました。出火より五年後、七十六歳で寂されました。
第十七世義存(1784~1832)は、二十二歳で継職しました。文政十三年(1830)関三月、後法性寺月輪禅定殿下(九条兼實1149〜1208)御位牌所となり、紫慢幕と、釣提燈式張を下され、御尊牌は、今も安置しております。またこの頃、玄関が建立されたようで、唐波風部を今に伝えます。
第十八世義圓(1821~1873)の時、本堂再建の計画が成され、第十九世圓琳(~1889)に受け継がれ、明治十六年頃完成したようです。そして、第十九世義證(1853~1922)の時、明治三十二年(1899) 十二月十五日、山門御再建相成りました。
第二十二世憲正の時、太平洋戦争のため、梵鐘を供出、終戦後昭和二十四年四月十五日、鐘楼再建相成りました。
第二十三世義憲・第二十四世義円の時、本堂修復が行われました。その後、庫裏修復、屋根葺き替えが行われ今に至ります。
この様に、簡単に述べたわけですが、前述の火災によって大変資料が乏しく、また、異説も有るようですが、今日西光寺に伝わります資料を基に、書き記すものです。