諫早茂図
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略歴
延享3年(1747年)、8代諫早邑主・諫早茂行の三男として誕生。
兄・茂成が没したため、明和4年(1767年)に家督を継ぐ。明和6年(1769年)、寛延3年(1750年)に上地された諫早領4000石が返還されたのは諫早一揆の盟主・若杉春后のおかげであるとして、若杉霊神を建立した。天明3年(1783年)、執行一介の支援を得て郷校「好古館」を開校する。
文化元年(1804年)、ロシア使節レザノフが長崎来航し、矢上屯所より出兵し警備を務めた。防備のため、文化4年(1807年)に領内海岸5ヶ所に砲台(台場)を設置した。文化5年(1808年)、長崎警備に就いたが英国軍艦フェートン号侵入(フェートン号事件)を阻止できなかった。
文化12年(1815年)、死去。享年70。邑主としての在職期間は歴代最長である。
子・敬輝がいたが早世したため、孫の茂洪(しげひろ)が継いだ。茂図と同じく諫早豊前を称した敬輝、茂洪はそれぞれ鍋島直与の姉、娘を室に迎えている。