永正12年(1515年)に父・赤穴久清の隠居に伴い家督を継いだ。同年尼子経久に仕え、領地を安堵された。
天文11年(1542年)2月から始まる大内義隆の第一次月山富田城の戦いでは、月山富田城から田中三郎左衛門ら1000騎の援軍を瀬戸山城に迎え入れ、赤名川をせき止めて赤名盆地を湖水とするなど防備を強化した。大内軍が瀬戸山城に来攻すると、毛利元就配下の熊谷直続を討ち取り、大内の大軍を撃退するなど、その活躍は目覚しかったが、戦闘指揮中に大内方の陶隆房配下の弓に喉を射抜かれ討死した。光清の討死により、抵抗力を失った瀬戸山城は降伏した。
長男・詮清と次男・定清は大内氏に従ったが、やがて尼子氏の勢力が回復すると、隠居の久清が三男・盛清と共に尼子氏に帰参し、赤穴一族は敵味方に分かれた。天文12年(1543年)に詮清は筑前国で討死し、定清は大内側にある自分と、尼子側にある実家との関係に悩み自害した。光清の奮戦に感動していた尼子晴久は盛清(後に久清と改名)を重用したが、盛清は晴久の死後に弱体化した尼子氏を見限り、毛利元就に降伏した。