Wikiwand AI

逆鉾与治郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

逆鉾 与治郎(さかほこ よじろう、1871年5月10日 - 1939年10月22日)は、鹿児島県日置郡金峰町(現南さつま市)出身で高砂部屋、のち井筒部屋に所属した大相撲力士。本名は今井 与次郎(旧姓年永)。最高位は東関脇。現役時代の体格は168cm、82kg。得意手はハズ押し、左四つ。

子供の頃から土地の宮相撲で活躍していたが、巡業で鹿児島を訪れた初代西ノ海・小錦一行に誘われて高砂へ入門、1893年(明治26年)1月場所序ノ口で初土俵を踏んだ。2年後の1895年(明治28年)6月場所には早くも十両に昇進、十両もわずか2場所で通過して1896年5月場所入幕した。この年の1月場所で初代西ノ海が引退、井筒部屋を興したのでこれに従った。

小兵ながら前捌きが巧みで動きが速く、ハズ押しや左半身からの攻めに加え、「踵に目がある」と評されたほど土俵際の粘りが強く、「名人」と讃えられた。三役から幕内上位を長く務め、横綱常陸山谷右エ門とは対戦がなかったものの梅ヶ谷には3勝7敗3分、大砲には金星を含む3勝4敗4分とほぼ互角に闘い、「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代にあって大活躍した。

幕内を11年務めて1907年5月場所、西小結にあって1敗9休としたのを最後に現役を引退、年寄関ノ戸(7代)を襲名して検査役を長く務めた。大見嵜と仲が良く巡業にも同行していた。

礼儀正しく質実温厚にして寡黙な人柄、弓取式も相撲同様名人級の腕前だったという。弓を射ても猟銃を取らせても巧かったといわれる。酒豪でも知られた。実弟も達上嘉平と名乗って幕下まで相撲を取った。

晩年は湯河原に旅館を開き狩猟三昧の日々で1939年、老衰で68歳で死去した。

主な成績

  • 番付在位場所数:30場所
  • 通算成績:84勝51敗29分3預82休 勝率.622(便宜上幕内と十両の合計を表示。幕下以下は相撲レファレンス等のデータベースに登録がないため。ただし他に幕下在位時の対十両戦の記録として1敗がある。)
  • 幕内在位:23場所(うち関脇5場所、小結4場所)
  • 幕内成績:72勝47敗26分3預82休 勝率.610
  • 金星:1個(大砲。1905年1月場所)

場所別成績

逆鉾 与治郎
春場所 夏場所
1893年
(明治26年)
西序ノ口12枚目
– 
西序二段26枚目
– 
1894年
(明治27年)
東三段目37枚目
– 
東三段目6枚目
– 
1895年
(明治28年)
西幕下18枚目
0–1
(対十両戦)
 
西十両8枚目
6–2
2分
 
1896年
(明治29年)
東十両2枚目
6–2
1分
 
東前頭10枚目
7–2–1 
1897年
(明治30年)
東前頭2枚目
4–4–1
1分
 
東前頭2枚目
6–3–1 
1898年
(明治31年)
東小結
6–1–2
1分
 
東関脇
5–2–1
2分
 
1899年
(明治32年)
東関脇
7–1–1
1分
 
東関脇
4–2–2
2分
 
1900年
(明治33年)
東関脇
3–5–1
1分
 
東前頭筆頭
1–4–1
3分1預
 
1901年
(明治34年)
東前頭筆頭
4–3–1
1分1預
 
西小結
1–1–7
1分
 
1902年
(明治35年)
西前頭筆頭
4–2–1
2分1預
 
西前頭筆頭
0–0–10 
1903年
(明治36年)
西前頭3枚目
1–3–2
4分
 
西前頭6枚目
4–2–1
3分
 
1904年
(明治37年)
西前頭2枚目
2–5–1
2分
 
西前頭2枚目
0–0–10 
1905年
(明治38年)
西前頭5枚目
1–4–5
★
西前頭7枚目
0–0–10 
1906年
(明治39年)
西前頭10枚目
6–1–1
2分
 
西小結
3–1–6 
1907年
(明治40年)
西関脇
3–0–7 
西小結
引退
0–1–9
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞     その他:★=金星
番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 幕下以下の地位は小島貞二コレクションの番付実物画像による。

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks