野辺民雄
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生涯
嘉永2年(1849年)、唐津に生まれる。明治元年(1868年)2月末、武蔵国江戸に居た旧幕臣・渋沢成一郎、同・天野八郎ら有志が彰義隊を結成した。野辺は、肥前国唐津藩主・小笠原長行の義弟である三好胖、同藩士・栗原仙之助、同・高須熊雄らと共に、旗本・竹中重固を隊長とする純忠隊に加わり、彰義隊と共に5月15日に起きた上野戦争に参戦した。しかし、僅か1日で新政府軍に敗れ、野辺らは武蔵国江戸の市中に潜伏する。5月24日、輪王寺宮・三好・前場小五郎らと共に旧幕府海軍「長鯨」に乗船し、陸奥国平潟へ渡航する。上陸した後、輪王寺宮を護衛しながら6月上旬に陸奥国会津若松に入り、三好の義兄である肥前国唐津藩主の長行と合流する。その後、長行が奥羽越列藩同盟の参謀に就くことになったため、7月に陸奥国白石に向かった。しかし、奥羽越列藩同盟の瓦解に伴い、9月に陸奥国仙台に入った。長行は榎本武揚・大鳥圭介ら旧幕臣と共に蝦夷国箱館へと向かうことを決めるが、榎本が随行者を2名に制限したため、大野右仲・野辺ら唐津藩士23名は、陸路で出羽国庄内を目指そうとする。9月18日頃、土方歳三が率いる新選組に入隊すれば主君と共に蝦夷地へ渡航出来ることを知った唐津藩士23名は、新選組に入隊し蝦夷地へと渡航した。蝦夷地に上陸後、野辺は新選組隊士として箱館市中取締の任に就くが、新政府軍の侵攻が開始されると戦況は徐々に悪化していき、明治2年(1869年)4月23日に長行は密かに蝦夷地を脱出し、5月15日に弁天台場に籠城していた箱館編成新選組は新政府軍に降伏する。箱館戦争の終結後、野辺ら新選組隊士は青森県弘前の寺院などで謹慎し、11月9日に東京の芝・増上寺に移送される。まもなく唐津藩に引き渡され、明治3年(1870年)1月に放免される。明治43年(1910年)9月24日、東京で没した。享年62歳[要出典]。