鈴木天眼

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鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日1867年8月7日) - 大正15年(1926年12月10日)は、福島県二本松出身で、明治後期から大正時代にかけて活動したジャーナリスト。東京で『二六新報』主筆を務めた後、長崎で東洋日の出新聞』を創刊、社長兼主筆として活躍した。衆議院議員1期。天眼は、本名は力(ちから)。生涯にわたって軍国主義反対、人権・平和尊重の論陣を貫いた。中国の辛亥革命を熱烈に応援し、革命成就後に来日した孫文から長崎の自宅に感謝の訪問を受けた。従来、黒龍会『東亜先覚志士記伝』の記述などから天眼も国家主義者、大陸進出論者であると誤解されてきたが、東洋日の出新聞の論説を調査した結果、実際はそれとは正反対の思想の持ち主で、国家主義を否定し、個人の自由と権利を尊重する、当時としては稀に見るリベラルな主張を展開していたことが判明した。(『鈴木天眼〜反戦反骨の大アジア主義』232頁)

二六新報

陸奥国安達郡二本松町(現在の福島県二本松市)に生まれる。二本松藩士の父、習(ならえ)は力誕生の半年前、1867(慶応3)年1月に亡くなっている。二本松藩士の祖父、鈴木又左衛門は力誕生翌年に始まった戊辰戦争で、押し寄せる新政府軍と戦い、討ち死にした。 幼い力は母の手で育てられ、郷里で竹内東仙に就いて漢籍を学び、12歳で福島県石川郡役所の給仕となり、13歳で上京して、会津出身の浅草警察署長、赤羽友春及び会津出身でイギリスから帰国したばかりの日下義雄宅に寄食して勉学に励む。 1883年9月、16歳で東京大学予備門に入学。成績優秀だったが(『東京大学予備門一覧』)、校風を嫌って中退。独学に励み、1888年、20歳で初の著作『独尊子』を刊行。谷干城に激賞され、一躍、注目を集める。刊行と同時期に喀血、結核を発病した。 1887年12月、保安条例で自由党の星亨が東京を追放になったため発刊継続が危ぶまれた公論新報の主筆を任される。来島恒喜、的野半介の依頼で、小笠原諸島に幽閉中の金玉均救出の檄文を書いて二晩、投獄される。さらに、米紙の大隈重信批判を公論新報に翻訳転載して8か月、投獄され、長期の過酷な獄中生活で結核が重症化。転地療養の必要に迫られ、長崎県知事に就任していた日下義雄を頼って長崎へ。知事公舎に寄宿して2年間、療養に専念。この間、長崎の歴史や文化を考察した『新々長崎土産』を刊行。(前掲『鈴木天眼』18頁)。

天佑侠参加、全琫準との出会い

新天地求め長崎へ

盟友、西郷四郎

東京に出て『丈夫の本領』等を出版して名声を得る。1890年(明治23年)、佃信夫北村三郎と共に雑誌『活世界』を発刊。国粋主義系の記者としてその名を馳せ、1893年(明治26年)に秋山定輔が創刊した『二六新報』に主筆として迎えられる。次いで、天佑侠の結成に参加し、朝鮮へ渡る。

帰朝後、長崎にて『東洋日の出新聞』を創刊。もっぱら東亜問題を論じる異色の新聞として、大きな評判となった。1908年(明治41年)に第10回衆議院議員総選挙で長崎市より選出されて衆議院議員となり、一期在任した。1910年(明治43年)に軍艦「生駒」に乗り込み、安南南米欧州を見聞し、1914年(大正3年)には南洋の視察を試みた。

東洋日の出新聞時代

著書

参考文献

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