鈴木錦泉
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1867年に和歌山市に生まれる。本名は為之丞。または尚俊とも号している。父は和歌山藩士であったが、明治維新によって職を失い、その後に始めた事業にもことごとく失敗、錦泉は和歌山にいる頃から筑紫翠雲に師事、南画を習い、雲溪という号をもっていた。その後、錦泉は大阪に出て絵を描こうとしたが、大阪という商業都市では南画は受け入れられなかった。そこで、生活のため、独学で浮世絵を学び、夥しい数に上る講談本の口絵や『神戸新聞』の挿絵を描くようになった。勤勉な性格で有職故実を習得、間違いのない時代考証に基づいた木版口絵を描くことに努めたほか、文筆面においても達筆であった。また、近畿地方の文化財の保存に携わる仕事にも従事している。大阪において発行された講談本の数は1500種とも2000種とも言われたが、その内70から80パーセントに上る口絵を錦泉がてがけており、その特徴は描かれた人物の容貌、体形とも細身である点にあった。