1921年2月中旬より、閔元植は東京ステーションホテルに宿泊し、参政権獲得運動を進めていた。
朝鮮独立運動家で日本大学の学生だった梁槿煥は、知人から人力車夫の斡旋料を騙しとって資金を捻出、日大の朝鮮人学生有志の代表として閔元植に面会を申し込んだ。
1921年2月15日8時30分、梁槿煥は閔元植を訪れた。梁槿煥は30分ほど歓談した後、急に態度を変え「今、我々が祖国独立のために闘っているのに、参政権獲得運動などと馬鹿げたことをやるとは怪しからん」と叫び、閔元植を短刀で刺した。梁槿煥はそのまま逃走した。
閔元植は、まもなくホテルのボーイに発見され、直ちに病院に運ばれたが出血多量で死亡した。
警視庁は、第一発見者のボーイに写真を示して、犯人が梁槿煥であることを確認し、全国に指名手配した。
梁槿煥は事件後、一旦妻子に会った後、当日夜に家を出て、大連行の船に乗って逃走を図った。この船は長崎港に寄港したので、上海行の船に乗り換えることにし、長崎市内で一泊した。翌日正午、警視庁より長崎県警察部宛に指名手配書が届き、午後3時に船に乗り込もうとした梁槿煥を逮捕した。
梁槿煥は無期懲役の判決が下った。