寛政3年(1791年)、徳山の貧しい家に生まれる。寛政8年(1796年)に母が死去し、母方の祖父である茂左衛門に引き取られて養育された。享和2年(1802年)には父が病気となったため、父の看病のために帰宅。以後は父の看病をしながら、昼は近所の米つきに雇われ、夜は父の側で糸を紡ぐという生活が続いた。体の軽さから、米つきをする際には重りとして石を腰につけたと伝えられている[9]。
阿米は純孝な性格で、労苦を厭わず、父が満足するのを自分の楽しみとした。このことが藩主・毛利広鎮の耳に入り、たびたび表彰され、米穀や恩賞を賜った。その間、様々な薬を試したり、父を背に負い四国八十八箇所を巡礼して病平癒を祈願したりするも、病気は治らず、天保3年(1832年)、阿米の31年にわたる看病の末、父の金左衛門は68歳で死去する[9][7]。
その後、藩主が哀れみ米や銭を下賜しようとするも、阿米は自分のために浪費することは頑なに断り、受け取った若干の米も世話人に預けて、緊急の場合以外は手を付けなかった。やがて老いて病を得、病状が重くなると、近所の人々に多年の厚意を拝謝し、自分の死後に遺骨を父母の墓の傍に埋めるよう頼み、嘉永5年(1852年)に62歳で死去する[10][11]。
法名を「慈順」といい、川端町の徳応寺に葬られた。お米の墓は現在も徳応寺の境内にある[12][13]。
万延元年(1860年)11月28日、阿米の孝養を称えるため、藩主・毛利元蕃の命により石碑が建立された。碑文は安積艮斎が撰文し、書は楷書の大家である中村春秀による[1]。
昭和31年(1956年)よりは、徳応寺において、毎年阿米の命日に「孝女阿米顕彰会」の法要が営まれ、同時に徳山市(現在は周南市)内の親孝行な児童・生徒を表彰して、その孝養を称えるならわしが続けられている[14][13]。