貧家に生まれ、実直恭謹な態度で、郷里の尊敬を受けた。楊堅が北周の隨国公となると、陳茂は召し出されて僚佐となり、李円通らと同等に扱われた。楊家の家事をつかさどって、意向にかなわないことがなく、楊堅に賞賛された。後に楊堅の下で北斉軍と晋州で戦った。北斉軍が善戦していたので、楊堅が自ら前線に出て流れを変えようとしたが、陳茂は馬のくつわを取って行かせなかった。楊堅は怒って、抜刀して陳茂の額を斬りつけた。陳茂の顔面は流血したが、言動を変えなかった。楊堅は感心して陳茂に謝った。後に陳茂の官は上士となった。
580年、楊堅が丞相となると、陳茂は大事を委ねられた。581年、隋が建国されると、陳茂は給事黄門侍郎に任ぜられ、魏城県男に封ぜられて、国政の機密をつかさどった。在官すること十数年、益州総管司馬に転出し、太府卿となり、爵位は伯に進んだ。数年後、在官のまま死去した。
子の陳政が後を嗣いだ。