ドイツ・オーストリア・イタリアといった中欧・南欧諸国を東西から挟撃する体制によって仮想敵を三国同盟(のちの第一次世界大戦ではイタリアが離脱し、東欧諸国およびオスマン帝国などが加わる中央同盟が成立する)に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではない。当時のヨーロッパ王室・帝室の常としてロシア皇帝ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が縁戚関係だったこともあり、日清戦争後の三国干渉(1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの国益によっては連携する余地も存在していた。むしろ、同盟成立当初においてロシア・フランスの両国にとって懸案だったのはイギリスであった。ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの南下政策の妨げであり、フランスにとっては自国の「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが3C政策をとるイギリスだったからである。
しかし、ヴィルヘルム2世は世界政策(新航路政策)を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「3B政策」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの英仏協商、英露協商と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。
ロシアはこの同盟を前提としてフランスからの投資を受けることになった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道も、この時のフランス資本によるところが大きい。もっとも、この時期における投資の多くはロシア革命によって社会主義政権が成立すると回収不能になった。