高安朝範

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全名 向龍光(唐名)
身位 親方
出生 (1793-07-20) 1793年7月20日
琉球王国
(現・日本の旗 日本 沖縄県
死去 (1871-06-27) 1871年6月27日(77歳没)
琉球王国
(現・日本の旗 日本 沖縄県
高安 朝範
たかやす ちょうはん
向氏高安殿内 九世(第二尚氏王朝 分家士族)

全名 向龍光(唐名)
身位 親方
出生 (1793-07-20) 1793年7月20日
琉球王国
(現・日本の旗 日本 沖縄県
死去 (1871-06-27) 1871年6月27日(77歳没)
琉球王国
(現・日本の旗 日本 沖縄県
配偶者 真鶴(向氏 當間親方朝祥の娘)※離別
  思戸(温氏 末吉親雲上紹上の娘)
子女 別記
父親 垣花朝貫
母親 真加戸(郎氏 浦崎親雲上實通の娘)
役職 三司官座敷(正二品)
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高安(垣花) 朝範(たかやす ちょうはん、乾隆58年(1793年)-咸豊10年(1871年))は、琉球王国第二尚氏王統分家士族である高安殿内の九世。唐名向龍光童名は真蒲戸。兄朝綱、朝知が早世したため、1814年に家統を継ぐ。

琉球王国第二尚氏王統 17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王に仕え、1858年には三司官座敷まで上り詰めた中興の祖である。なお、1861年、尚泰王により豊見城間切高安の地頭職に任命され、それ以降同家は名称を高安殿内に改める。

経歴のなかでも王族の大親職(うふやー:育ての親)としての功績が目立つ。1824年美里王子朝規の座敷大親職、1843年には中城王子尚濬尚育王 王世子)の大親職、1847年大里王子朝教(尚灝王 三男)の大親職、1853年佐敷按司加那志尚泰王 王妃章賢室)の紫冠大親職などに任命される。

1863年三司官への道が開かれていた中で、老齢を理由に自らすべての職の免職を尚泰王に上奏する。

尚灝王世代

  • 嘉慶12年(1807年)丁卯(ひのとう)2月1日:欹髻を結ぶ
  • 同17年(1812年)壬申(みずのえさる)12月1日:御書院御小姓となり、若里之子に叙される
  • 同19年(1814年)甲戌(きのえいぬ)8月27日:家統を継いで、玉城間切垣花地頭職に任ぜられる
  • 同22年(1817年)丁丑(ひのとうし)12月1日:御小姓を退役し、黄冠に叙される
  • 同23年(1818年)戊寅(つちのえとら)6月19日:大興足中取に任ぜられる
  • 同年9月20日:同所(大興)中取職に任ぜられ、當座に叙される
  • 道光元年(1821年)辛巳(かのとみ)5月5日:佐敷御殿足座敷大親に任ぜられる
  • 同年12月23日:同所(佐敷御殿)座敷大親職に任ぜられる
  • 同3年(1823年)癸未(みずのとひつじ)6月1日:御系図假(仮)中取職に転任となる
  • 同年12月1日:御系図中取職に任ぜられる
  • 同4年(1824年)甲申(きのえさる)6月1日:下庫理御番頭職に任ぜられる
  • 同年12月23日:美里王子朝規の座敷大親職に任ぜられる ※勤役は三カ月間
  • 同5年(1825年)乙酉(きのととり):琉球が飢饉によって3月1日に八重山島穀物才覚使となる。※同月8日 渡海し全ての公務を終了させ、6月3日帰琉
  • 同5年(1825年)乙酉(きのととり)12月1日:勘定奉行職に任ぜられる
  • 同6年(1826年)丙戌(ひのえいぬ)5月18日:美里間切下知役職に転任となる
  • 同年12月6日:大美御殿の御物大親職に転任となる
  • 同8年(1828年)戊子(つちのえね)6月21日:国場按司加那志の御婚礼主取職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同10年(1830年)庚寅(かのえとら)6月17日:王姫識名按司加那志の御婚礼主取職に任ぜられる ※本職と兼務する

尚育王世代

  • 道光16年(1836年)丙申(ひのえさる)2月1日:大唐船才府となる
  • 同年7月23日:尚育王より、内院で餞(はなむけ)として国分煙草を二十把、上布を一疋賜る。国母の向   氏佐敷按司加那志、国妃の向氏野嵩按司加那志より、内院にて餞として扇子二本、嶋織縮緬布一端を賜る  
  • 同年9月21日:那覇から出航し、26日 福州に到着。全ての公務を終了させる
  • 翌年(1837年)5月19日:帰琉する
  • 同17年(1837年)丁酉(ひのととり)5月27日:返上物宰領となる
  • 同年6月19日:尚育王より、内院で餞として官香五把、上布一疋を賜る
  • 27日:国曾祖母の向氏聞得大君加那志より、内院にて餞として渋扇子を一箱、嶋紬布を一端、赤嶋布を一端賜る
  • 同年6月19日:国母の向氏佐敷按司加那志、国妃の向氏野嵩按司加那志より、内院にて餞として渋扇子を二本、紺嶋紬を一端賜る
  • 同年7月10日:那覇から出航し、14日 鹿児島に到着。全ての公務を終了させる
  • 同年12月15日:お暇と三殿様より品を賜る
  • 翌年(1838年)2月13日:帰琉する
  • 同17年丁酉(ひのととり)11月11日:来年の冊封使来訪のため、御備主取職に任ぜられる
  • 同18年(1838年)戊戌(つちのえいぬ)6月30日:母(郎氏真加戸)が八十一歳になったために御賞愛として尚育王より宝蔵を一点、銅板齊を一端賜る
  • 同年10月23日:尚氏大里王子朝教が薩摩に赴く際、大親職となる
  • 同19年(1839年)己亥(つちのとい)5月14日:尚育王より、内院にて餞として渋扇子を二本、上布を一疋賜る。国曾祖母の向氏聞得大君加那志、国母の向氏佐敷按司加那志、国妃の向氏野嵩按司加那志より、内院で餞として官香を五把、上布を一疋賜る
  • 同年6月3日:那覇から出航し、7日 鹿児島に到着。全ての公務を終了させる
  • 同年8月28日:お暇と品を賜る。内證より、團羽(うちわ)を一箱十本、短冊掛を一箱、文庫を一点、板締縮織を二端、御細工物を一箱、千代紙を一箱賜る
  • 同年10月1日:帰琉する
  • 道光18年戊戌(つちのえいぬ)9月:新修のため始祖来の墓を平良馬場の南の方へ移葬する
  • 同21年(1841年)辛丑(かのとうし)3月:末吉の境内に墓を新造した
  • 同19年(1839年)己亥(つちのとい)12月1日:田地奉行職に任ぜられる
  • 同21年(1841年)辛丑(かのとうし)5月14日:西原間切下知役職に転任となる
  • 同23年(1843年)癸卯(みずのとう)2月15日:王世子の中城王子尚濬の大親職に任ぜられる
  • 同25年(1845年)乙巳(きのとみ)12月1日:御取帯吟味職に任ぜられる
  • 同年12月14日:百浦添御普請御手當差引方職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同26年(1846年)丙午(ひのえうま)6月1日:南風之平等惣與頭職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同27年(1847年)丁未(ひのとひつじ)2月1日:御取帯御物奉行職に任ぜられ、紫冠に陛る
  • 同年同月3日:尚氏大里王子朝教の大親職に任ぜられる ※本職と兼務する

尚泰王世代

  • 道光30年(1850年)庚戌(かのえいぬ)2月1日:来年の初頭の慶賀使に任ぜられる
  • 咸豊元年(1851年)辛亥(かのとい)5月10日:御書翰を領する
  • 6月8日:那覇から出航し、同月16日 鹿児島に到着する。全ての公務を終了させる
  • 翌年(1852年)壬子(みずのえね)8月16日:鹿児島を出航する
  • 同月20日:読谷山間切渡慶次に到着するが、漂流してしまい、同月26日 今帰仁間切古宇利にかかり、数船を漕ぎ出してそれに乗り移り、小舟に御書翰を領して運天に到着する
  • 同年9月2日:陸を出発して首里に登り、首里城に進んで復命する
  • 同年11月4日:佐敷按司加那志紫冠大親職に任ぜられる
  • 同年12月1日:勘定奉行職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同4年(1854年)甲寅(とのえとら)8月5日:御書院奉行職に転任となる
  • 同年9月5日:御掛物並びに御額仕立掛職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同年2月18日:御取帯方諸座請御職、御賦調部掛職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同6年(1856年)丙辰(ひのえたつ)10月29日:尚質王御後絵の拝替御表具拝調掛職に任ぜられる ※本職と兼務する
  • 同8年(1858年)戊午(つちのえうま)11月6日:三司官座敷に陛る
  • 同11年(1861年)辛酉(かのととり)4月25日:豊見城間切高安地頭職に転任する
  • 同治2年(1863年)癸亥(みずのとい)12月21日:尚泰王に諸々の公事を免職させてもらう願いを上奏する
  • 同5年(1866年)丙寅(ひのえとら)1月17日:御賦調部係職の職務を全てを終わらせ、褒美を受ける
  • 同10年(1871年)辛未(かのとひつじ)6月27日:79歳で亡くなる

系譜

参考文献

関連項目

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