高橋捨六 From Wikipedia, the free encyclopedia 高橋 捨六(たかはし すてろく、1862年4月8日(文久2年3月10日)- 1918年(大正7年)8月14日)は、明治時代から大正時代の弁護士、法律家。 越前国福井藩士の木内盛潔の次男として生まれ、1876年11月に高橋左十郎の養子となる。福井県より選ばれて駒場農学校に入学し、予科、大学予備門を経て東京帝国大学法科に入学する。1885年に同校を首席で卒業し、大蔵省主計局に入って数年後、弁護士に転身。1895年には東京弁護士会の会長となる。日本銀行顧問や横浜正金銀行の監査役などを務めた。また、中央大学の前身である英吉利法律学校の創立に尽力した。後の学長である林頼三郎は弁護士事務所の書生であった[1]。 1918年の春、肺炎に罹ったため、二宮町の別荘で静養していたが、帝大病院に入院後、渋谷町下渋谷氷川裏の邸宅に戻り、同地にて没した。享年57。葬儀は青山斎場にて執り行われ、岡野敬次郎学長などが弔辞を読み上げた[2]。墓所は青山の玉窓寺にあり、戒名は眞道院殿宏徳洗心大居士。 家族 妻:はな(東京府平民の本島銀五郎の三女) 長男 昇三(大正2年21歳にて死去。) 養子:高橋弘(跡見女学校教員の跡見愛四郎の三男。原三渓の原合名会社ロシア軍需品部や秘書役として勤務後、昭和製鋼所の大連事務所長となる。) 養子妻:照子 養孫:健介 脚注 ↑ コトバンク 高橋捨六 ↑ 中央大学 高橋捨六氏逝去 Related Articles