万治2年(1959年)、鵜殿長定の長男として鳥取城下で生まれる。鳥取鵜殿初代、曽祖父長次は三河国柏原鵜殿氏の出。天正18年(1590年)、徳川家康の家臣として関東移封に随従、相模国波多野に所領を与えられ、家康・秀忠の2代に仕えて大番頭まで務めたが、慶長18年(1613年)督姫(良正院。姫路藩主池田輝政継室。母は柏原鵜殿氏より家康第一側室となった西郡局。始め、小田原城主北条氏直正室。長次の姪)の子、備前藩主池田忠継の後見として備前に招かれ、赤坂・津高・御野3郡の内に5000石を与えられる。元和元年(1615年)2月、大阪冬の陣から戻った忠継が急死、弟忠雄が跡を継いだ。忠雄は寛永9年(1632年)に亡くなるが、嫡子光仲が未だ幼いとして、備前と因幡伯耆2国の間で国替えが行われることになった。光仲に従い鳥取に移った長次は、所領として岩井郡5000石を与えられ浦富に陣屋を敷いた。この時、江戸から備前に同行していた四男・五男も来住、寛永13年(1636年)長次が亡くなると四男長之が家督を嗣ぎ(鳥取鵜殿2代)、万治元年(1658年)長之が亡くなると嫡男長定が嗣いだ(鳥取鵜殿3代)。寛文2年(1662年)、長春は4歳にして初めて藩主光仲に御目見する。寛文4年(1664年)、江戸出府。翌年正月、初めて4代将軍家綱を拝する。延宝8年(1680年)綱吉が家綱の養嗣子として5代将軍となる。貞享3年(1686年)、長春は民部と改号する。元禄4年(1691年)、池田武憲(池田輝澄の八男)の長女を娶るが、2年後疱瘡で亡くす。元禄8年(1695年)、津田元長の次女と再婚。元禄10年(1697年)、家老に任ぜられる。同時に父長定の隠居を受け家督を継ぐ。元禄12年(1699年)、大隅と改号。2代藩主綱清の参勤交代に同行する。この年初めて林鳳岡に会う。元禄13年(1700年)、藩主綱清が隠居、綱清の養嗣子吉泰が襲封する。同年、長春は京都で伊藤仁斎・伊藤東涯父子と会合する。元禄16年(1703年)、上総と改号、6月江戸出府。8月大炊と改号。12月、元禄大地震が起こる。幕府は江戸城門櫓の補修と石壁の改築を諸藩に命じる。藩主吉泰は大手門から御玄関前御門の修築を担当、長春は総監督に任ぜられる。宝永元年(1704年)、和泉と改号。この年の秋、石壁・門櫓の工事が完了する。7月、同僚共々登城の栄に浴し、老中秋元喬知より白銀500両など拝領する。8月、藩主吉泰より功労を賞され腰刀など賜る。同月、帰国。宝永5年(1708年)、妻を亡くす。宝永6年(1709年)、将軍綱吉が逝去、家宣が6代将軍となる。この年、藩主吉泰の参勤交代に同行する。宝永7年(1710年)、旗本で再従兄の鵜殿長政の子、長親を養嗣子にする。正徳2年(1712年)、池田政武(池田輝澄の五男)の娘を娶る。正徳4年(1714年)、老いを理由に引退を申し出るが許されず(その後も何度か引退を申し出る)。同年母の25回忌に際し、浦富に霊祥寺を建立。享保4年(1719年)、藩主吉泰の参勤交代に同行。この年、朝鮮通信使が来朝。享保5年(1720年)、藩主吉泰に従い登城する。4月、鳥取城下大火災(石黒火事)。5月帰国。6月、父長定が亡くなる。享保6年(1721年)、養嗣子長親が元服。享保7年(1722年)、長春の妹が荒尾成紹の養嗣子荒尾成庸に嫁ぐ。この年、藩主吉泰の参勤交代に同行。享保8年(1723年)、帰国。同年、林鳳岡父子三人を鳥取城内で歓待する。享保9年(1724年)、鳥取城下大火災(黒川火事)。享保10年(1725年)、長春の娘と養嗣子長親が結婚。享保12年(1727年)、孫娘梅子が出生。同年、藩主吉泰の参勤交代に同行する。10月、帰国。この年、高祖父鵜殿長忠(法号日庵)没後140年を期し、京都本禅寺日恵上人に贈号を請い、12月鳥取妙要寺において一乗院を追贈。享保15年(1730年)、在職のまま死去。享年72歳。12月、長親が家督を継承。代々鳥取藩家老として明治維新を迎えた。
諫言録
長春の在職は30余年に及び、しばしば上書して意見を述べた。享保10年(1725年)、藩主吉泰に上書した諫言録は、八嘆・敞風・救風に分けて論述したもの。乾長孝と共に老職中の双璧と称された。
鵜殿家史
長春は、元禄9年(1696年)から享保12年(1727年)まで約30年をかけて、鵜殿家史全20巻をまとめた。引用文献は80点を超える。