黄観
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黄家の血筋ではあるが、父が許氏に入贅したために許姓の者として生まれた。洪武年間に国子監に入った。両親の墓を描いた絵を携え、取り出して拝礼するたびに涙を流していたという[1][2]。洪武24年(1391年)の会試・殿試ではともに首席での合格(会元・状元)となり、翰林院修撰の官を授けられた(もっぱら『明史』巻143黄観伝の記述に拠ったが、疑問点もある。#伝説も参照)。洪武29年(1396年)には礼部右侍郎に昇進し、姓を黄に戻した。
建文元年(1399年)、官制が改められて尚書と侍郎の間に侍中の位が設けられると、黄観は右侍中に任ぜられ、方孝孺らとともに建文帝に仕えた。靖難の変後期において南京に危機が迫ると、勤王のための兵を募ったが、安慶まで行軍した時点で朱棣が南京を落としたことを知った。黄観は「節操の堅い妻のことだ、きっと自害しただろう」と慨嘆すると、自らも朝服を纏って羅刹磯[注釈 2]の急流に身を投げた[1]。『明史紀事本末』によれば、船頭が慌てて引き上げようとしたが官帽しか回収できず、永楽帝は馬草で作った人形にその官帽をかぶせて市に晒したという[4]。