朱頤年

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出生: 生年不明[注 1]
死去: 没年不明(1943年時点では存命)
職業: 司法官・法学者
朱頤年
プロフィール
出生: 生年不明[注 1]
死去: 没年不明(1943年時点では存命)
出身地: 清の旗 順天府昌平県[1][2][3][4]
職業: 司法官・法学者
各種表記
繁体字 朱頤年
簡体字 朱颐年
拼音 Zhū Yínián
ラテン字 Chu I-nien
和名表記: しゅ いねん
発音転記: チュー・イーニエン(ジュー・イーニエン)
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朱 頤年(しゅ いねん、生没年不詳)は、中華民国の司法官・法学者。字は陽苓[1][2]隰苓[4]北京政府時代には司法官として各職を歴任。中華民国臨時政府にも参加した。

北京法政大学卒業後に日本へ留学し、明治大学の研究科で聴講生として学んだ[5][6][注 2]。帰国後の1914年民国3年)7月、京師地方審判庁推事(判事)署理に任命される。翌月に奉天省へ移って奉天高等審判庁推事署理となり、1916年(民国5年)10月、同庁推事として正式な任命を受けた。その後は安東地方審判庁庁長署理、直隷天津地方検察庁検察長署理を経て、1923年(民国12年)に直隷高等審判庁庁長署理となる。翌1924年(民国13年)6月、庁長として正式な任命を受けた[7]

王克敏中華民国臨時政府を創立すると、朱頤年は直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、司法委員会(委員長:董康)委員となり[8]、3月12日には最高法院推事を兼任している[9]

1940年(民国29年)3月30日、臨時政府は南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組された。臨時政府最高法院は中華民国最高法院華北分院に改組されたが、朱頤年の任用は確認できず、この機に引退したものと思われる。

1943年(民国32年)夏、朱頤年は北京で仁井田陞と会っており、仁井田は「法学者朱頤年教授」と記述している[10]。また同年1月26日に留学時の回顧文を執筆し(この際に「法学院研究室において」と記載)[11]、『中国留日同学会季刊』に掲載された(3月号と6月号)。

1943年6月以降における朱頤年の動向は不詳である。

著作

脚注

参考文献

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