当時オスマン帝国でシリアアラビア軍最高司令官を務めていたジェマル・パシャは国として取り組むことを決定し[1]、担当者を選んで対策を命じた[3]。
蝗害鎮定を指揮したミトハト・フラシェリ
火炎放射器でイナゴを退治する作業員
対策担当者となったミトハト・ベイ・フラシェリ(英語版)は、市に住む15歳から60歳の男性に対し、1人20キログラムのバッタの卵を集めるよう命じ、従わない者には4.40ポンドの罰金を課す法律を制定させた。ニューヨークタイムズは、この法がかなり厳格に実施されたと報じている。1915年11月21日までに罰金を支払った者は800人に上った[3]。
一方で民衆は、バッタの群れを神が与えた罰と考え、祈祷や祈願で流行が終わると言う人も現れた[4][5]。群れが大きくなる様を目撃したユダヤ教のラビA・M・ランツは「…宗教法廷(ヘブライ語版)では翌日に贖罪の儀式(Taanit Tzibbur)を行うことを決定し、1日中吟唱(ヘブライ語版)、祈祷、祈願のいずれかを行うことになった。その数日後、バッタの群れは去っていった…」と伝えている[5]。