初期に米国が行おうとした援助は、米国大使ルイ G. ドレフュス (Louis G. Dreyfus) がワシントンに、「イランの飢饉はさほど深刻ではなく、枢軸国相手の、より大局的な戦争への対応に比べ優先すべき事項ではない」と報告したことにより途絶えた。首都テヘランを含む多くの都市においてイラン人は連合軍に対して、飢饉だけでなく略奪を行っていることに対し、大規模抗議行動を組織した。これらの抗議活動は、英国の後ろ盾のあるアフマド・ガヴァム (Ahmad Qavam) 首相の政権当局により、暴力的に弾圧された。
第二次世界大戦中のイランにおける飢饉は、西洋の学術研究が著しく不足している。例えば、ジュリアン・バリエ(Julian Bharier)による1968年の人口統計学的研究(学術誌『ポピュレーション・スタディーズ Population Studies』掲載)は、この時期を付随的に扱うにとどまり、戦争がイラン人にさらなる苦難を課したと示唆するのみで、「1946年は、連合国占領後にイランが再び立ち直り始めた第二次世界大戦後最初の年である」と述べるだけである。それ以外に、バリエは飢饉についてまったく言及していない。それどころか、バリエはイランの戸籍登録局(C.R.O.)の数字を引用し、1942年から1945年の年間人口増加率を2%と推定しているが、これは人口統計学者メフディ・アマーニ(Mehdi Amani)が1926年から1945年の全期間について推定した平均1.5%の成長率を上回っている[6]。バリエは、第二次世界大戦時代の飢饉を分析したコーマック・オー・グラーダ(Cormac Ó Gráda) による2019年の論文でも引用されているが、ここでもイランの飢饉はわずか一文で言及されるにとどまっている。「死者数は不明であるが、おそらく軽微なものであった」というものである[7]。
コーネル大学で農業経済学の博士号を取得したM・G・マジュド博士(Dr. M. G. Madjd)は、この飢饉に関する最初の本格的な英語による研究を著した[8]。マジュドは『イラン・イスラーム期歴史学誌 Journal of Iranian Islamic Period History』において、第二次世界大戦中の連合国占領期に300万〜400万人のイラン人が飢えと疾病によって死亡したと結論づけたが、これは米国務省の人口統計にあるイランの人口 1941年(1500万人)と1944年(1000万〜1200万人)に従えば、人口の4分の1に相当するものである[9]。
脚注
↑Melville,Charles(1984).“Meteorological Hazards and Disasters in Iran: A Preliminary Survey to 1950”.Iran22: 113–150.doi:10.2307/4299740.JSTOR4299740.
↑McFarland,Stephen L.(February 1985).“Anatomy of an Iranian Political Crowd: The Tehran Bread Riot of December 1942”.International Journal of Middle East Studies17(1): 51–65.doi:10.1017/S0020743800028762.JSTOR163309.
↑Majd,Mohammad Gholi(2016).Iran under Allied Occupation in World War II: The Bridge to Victory & A Land of Famine.University Press of America.ISBN978-0-7618-6738-8