1961年パリ虐殺
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アルジェリアがフランスからの独立を目指したアルジェリア戦争(1954-62年)の最中の1961年10月5日、パリとその近郊ではアルジェリア系のイスラム教徒とイスラム教徒のフランス人だけに夜間外出禁止令(午後8時30分から翌午前5時30分)が発令され、これに対して差別的だとしアルジェリア民族解放戦線(FLN)が呼びかけて3万人以上がパリ郊外での抗議デモに参加した。
デモの参加者は武器の携帯を禁じられ平和裏に行われたが、パリ警視庁が身内に死傷者が出たとのデマを信じ、デモの参加者を弾圧した。12000人以上が逮捕され、一部は収容所で殴り殺されたり現場で射殺されるなどした。犠牲者数にはさまざまな説がありフランス政府が主張している犠牲者数は48人。ジャン・ポール・ブリュネは50人以上。ほかの歴史家は200-300人以上であるとしている。[1][2]。主な死因は警察官による殴打や射殺、デモ隊をセーヌ川に投げ込んだことによる溺死とされている。
一部の遺体はセーヌ川に遺棄されたものの、その多くが未だ見つかっていない。
パリ警視庁は翌日アルジェリア人同士の衝突で死者が出たと発表したものの、死者数は3人と実態とは大きくかけ離れた発表だった。しかし、当時は政府による検閲が行われており、長い間事実が知られることはなかった。パリ市がこの事実を認めたのは2001年10月17日になってからのことである。
またフランス政府はさらに遅い2012年10月17日にフランソワ・オランド大統領が1961年パリで起きたアルジェリア人虐殺事件を認めた。
2021年10月16日、エマニュエル・マクロン大統領は60周年を前に虐殺を非難し、フランスが「許されざる犯罪」を犯したことを公式に認めたが、そのような「許されざる犯罪」に対する正式な謝罪や国の責任についての言及は行わなかった。[3]マクロン大統領はその後、フランス大統領として初めて犠牲者の追悼式典に出席した。[4]