久保書店
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株式会社久保書店(くぼしょてん)は、日本の出版社。この項ではあまとりあ社(あまとりあしゃ)についても記述する。
| 久保書店 | |
|---|---|
| 正式名称 | 株式会社 久保書店 |
| 英文名称 | kubo syoten |
| 現況 | 事業継続中 |
| 種類 | 株式会社 |
| 市場情報 | 非上場 |
| 出版者記号 | 7659 |
| 取次会社 |
株式会社トーハン 日本出版販売株式会社 株式会社中央社 株式会社文苑堂 楽天ブックスネットワーク株式会社 株式会社日教販 |
| 取次コード | 1704 |
| 法人番号 | 4011201001443 |
| 設立日 | 1953年4月1日 |
| 代表者 | 久保達哉 |
| 本社郵便番号 | 〒165-0024 |
| 本社所在地 | 東京都中野区松が丘2-21-14 |
| 資本金 | 13,000,000 |
| 従業員数 | 7名 |
| 外部リンク |
www |
| 久保書店/あまとりあ社 (@kuboshoten1953) - X(旧Twitter) | |
概要
株式会社久保書店(法人番号:4011201001443)は1953年(昭和28年)に法人設立された。
1958年から1964年にかけて、ハードボイルド小説雑誌『マンハント』日本版を発刊していた。また、B級のSF/ミステリ叢書「久保書店QTブックス」やSF専門の叢書「久保書店SFノベルズ」、SM・アブノーマル雑誌『裏窓』などを刊行していた。
2021年10月より青年漫画(年齢指定なし)の発行を『ワールドコミックス』のレーベルから行っている。
2023年9月より、成人コミックスの新レーベル『バイキングコミックススペシャル』が創刊。70年代のあまとりあ社発行コミック雑誌「漫画バイキング」から名付けている。
あまとりあ社
| あまとりあ社 | |
|---|---|
| 種類 | 株式会社 |
| 市場情報 | 非上場 |
| 出版者記号 | 87042 |
| 取次コード | 0100 |
| 法人番号 | 7011201000310 |
| 設立日 | 1953年4月1日 |
| 本社郵便番号 | 〒165-0024 |
| 本社所在地 | 東京都中野区松が丘2-21-14 |
| 関係する人物 | 高橋鐵、久保藤吉、久保達哉 |
| 外部リンク |
www |
| 久保書店/あまとりあ社 (@kuboshoten1953) - X(旧Twitter) | |
株式会社あまとりあ社(法人番号:7011201000310)は、当初は1949年(昭和24年)、高橋鐵の性科学解説書『あるす・あまとりあ』の出版のために高橋と久保藤吉によって作られた名義である。1953年、久保書店とほぼ同時に法人として設立された[1]。
「久保書店」とは法人としては違うが、会社の住所や電話番号などは同じである。役員は同じだったり違ったりする時期がある。
歴史
創業当初
東京・新宿で製本所を営み、のちに印刷所「大元社」を立ち上げた久保藤吉[1]は、1946年に出版部門を設け、舟橋聖一『横になった令嬢』などの文芸ものを出版していたが、性科学者の高橋鐵と知り合い「あまとりあ社」を設立。1949年11月に「あまとりあ社」の名義で『あるす・あまとりあ』を出版。翌9月には続編を刊行し大成功を収めた。久保社長は「あまとりあ」の内容もさることながら、高橋がマッチの軸を使って書いたタイトル「あまとりあ」の独特の書体に魅力を感じたという[2]。
『あるす・あまとりあ』の成功を受け、1951年2月より高橋鐵の主筆による性風俗誌『あまとりあ』を刊行。1951年には『あるす・あまとりあ』シリーズが100万部を突破し、久保も江古田(現・松が丘)に自宅を新調し「あまとりあ御殿」と呼ばれた。その自宅の前に製本所を兼ねて、あまとりあ社を設立。1階が製本場、2階があまとりあ社である。当時の「松が丘」はまさに郊外で、見渡す限りの松の林が広がっていたという[3]。
1953年4月、「株式会社あまとりあ社」を設立。出版に専念する。同時に「株式会社久保書店」も設立されている。
久保社長は製本・印刷には通じていたものの、編集は素人で、『あまとりあ』の編集は実質的には中田雅久編集長が担っていた。中田は博友社で『新青年』の編集をしていた際に高橋と知り合い、当時あまとりあ社の久保社長と新雑誌創刊の相談をしていた高橋の紹介で久保書店に入社した。『あまとりあ』は「文化人の性風俗誌」をうたい、大場正史、岡田甫、南部僑一郎、平野威馬雄、正岡容、矢野目源一、龍胆寺雄らの各分野における研究者が寄稿していた[4]。カストリ雑誌の無名のライターとは格が違う、いわゆる「名士」「文士」である。
あまとりあ創刊号(1951年3月発行)はA5版の142頁で、表紙は3色刷りに別紙の4色刷りを貼り付けた仕様で、評判となった一方[2]、表紙絵を理由としたわいせつ文書容疑(刑法175条)で創刊号にして警視庁に摘発された[2]。その創刊号表紙は歌川国麿の春画「春色玉揃」の部分図であった[2][5]。また、伊藤春雨の色彩画を綴じ込み付録とした同1951年12月号もわいせつ容疑で摘発された[2]。
1955年には、日本特集出版社(後の日本文芸社)のSM雑誌『風俗草紙』の編集者であった須磨利之が久保書店に入社し、『あまとりあ』末期の編集に参加している。須磨はもともと、大阪のSM雑誌『奇譚クラブ』の編集者をしており、これに競合する変態雑誌を東京で発行しようとした日本特集出版社の夜久勉社長によって『奇譚クラブ』から引き抜かれて上京したと推測されている。須磨は『風俗草紙』に関与することで東京における人脈を作ったが、『風俗草紙』の激しい内容から発禁を予期しており、表立っては関与していなかった。『風俗草紙』はその煽情的で激しい内容から発禁を食らい、1954年10月号をもって休刊した。
『あまとりあ』も度重なる弾圧の末、最終的に黒字ながらも1955年8月に休刊する。休刊後、須磨は久保書店において新たな変態雑誌の創刊を志したが、「性科学」を標榜したことで幅広い読者をつかんだ『あまとりあ』に対し、須磨の志向する最初からマニア向けの変態雑誌は儲からないと解っていたので、久保社長は渋った。そこで須磨は10万円の低予算で全てを賄うと久保社長に談判し、久保社長も実際のところ看板雑誌を失った会社の経営の問題もあるので、こうして1956年、『かっぱ』が創刊された。発禁を食らった『あまとりあ』の後継誌ではあるものの、官憲の手前さすがに「あまとりあ社」の名義では出せないので、「久保書店」の名義で刊行された。
『裏窓』創刊
『かっぱ』は「カッパ・ブックス」を刊行する光文社からの抗議を受け、1956年9月号より『裏窓』と改名する。由来は須磨の好きなヒッチコックの映画『裏窓』から。編集長は須磨利之で、1962年より飯田豊一。飯田はもともと、名古屋の手袋メーカー「キョクイチ」のPR誌の編集としての本業の傍ら、「濡木痴夢男」のペンネームで『奇譚クラブ』『裏窓』などに投稿し、セミプロの作家として活動していた。飯田は赴任先の名古屋より帰京後の1957年頃より『裏窓』の編集に参加し、いつの間にか久保書店の社員になっていた。また、須磨の紹介で、後に劇画家になる椋陽児も久保書店に入社し、『裏窓』は須磨、飯田、椋の3人が中心となって制作された。
当初は売れないと思っていた『裏窓』には『奇譚クラブ』『風俗草紙』の人脈がなだれ込み、売り上げは上々となった。しかし度重なる摘発や、有識者団体による糾弾を受けた。1963年より「悪書追放運動」が開始され、1964年の東京オリンピックを控えて、いよいよ「現代の魔女裁判」ともいうべき激しい糾弾、つるし上げを受け、1965年1月号をもって休刊する。その後、推理小説誌に偽装した変態SM雑誌『サスペンスマガジン』(表題のSuspense Magazineの「S」「M」を強調しており、「わかる人にはわかる」ようにしていた)を刊行するも、やはり世間から激しい糾弾を受け、1969年、有識者団体の告発を受けて警視庁の摘発の気配があったので、休刊した。『サスペンスマガジン』の休刊をきっかけに、1969年5月、『サスペンスマガジン』制作の中心人物であった須磨と飯田、椋は久保書店を退社する。
『奇譚クラブ』から『裏窓』まで、変態雑誌のレイアウト・イラスト・記事など全ての面にわたって手がけた須磨は、一方で1963年に少女向けの抒情文芸雑誌『灯』を創刊(1966年に『抒情文芸』に誌名変更)。病的なまでに少女の感情が込められた「少女向けアブノーマル雑誌」[6]という点で、その本質は同じだった。雑誌の編集も、同じ江古田の久保書店2階で行われていた。
1958年、『裏窓』別冊の『耽奇小説』が独立創刊。編集長は島本春雄。ミステリーが中心だったが、半年で休刊し、編集部員は『マンハント』に移籍した。島本は須磨の紹介で久保書店に入社したが、もともとは関西探偵作家クラブにも所属する真面目な人で、久保書店QTブックスの編集長なども務めた。
久保社長としては変態雑誌だけでなくまともな雑誌も出したいと思っており、1958年、『マンハント』が創刊。海外ミステリー小説の翻訳が中心だった。編集長は中田雅久で、旧「あまとりあ」の人脈を引き継いでいた。雑誌の方向性は『裏窓』と全く違ったが、編集部は同じ久保書店の2階にあり、片岡義男(ペンネームは「松井六郎」)など、変名で『裏窓』に執筆している執筆者も多かった。久保書店『マンハント』は、早川書房『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』、宝石社『ヒッチコック・マガジン』とともに、当時の主要な翻訳ミステリー雑誌3誌の一つとなったが、1964年に休刊し、中田は河出書房に移った。『裏窓』編集長の飯田は、中田を中心とする「高橋先生万歳!」な『あまとりあ』『マンハント』の人脈とはそりが合わず、特に高橋鐵の俗物ぶりを嫌っていた[7]。
書籍では、1956年以降は、久保書店の名義では実用書のシリーズである「実用百科シリーズ」と、大衆文学のシリーズである「大衆娯楽新書版」が主な刊行物だった。あまとりあ社の名義では、新書版のエロチカルな本のシリーズである「あまとりあ新書」が主な刊行物だった。やはり変名で両方に執筆している執筆者も多かった。1962年、放送作家の野坂昭如の「初単行本」である『現代野郎入門』が久保書店から出版された際、出版記念パーティーが開かれて関係者が招かれたが、あまとりあ社で『国債肉体市場 狂い咲く女群』などを執筆していた変態作家の戸山一彦がそこにいたので、「どうしてあそこに戸山一彦がいるのか」[8]と、『裏窓』関係者は不思議がっていたという。
1965年より「久保書店QTブックス」を刊行。「QT」は久保藤吉社長のイニシャルに由来。
劇画雑誌に進出
1969年2月、久保社長は赤字続きの『抒情文芸』の廃刊を決定。4月には編集長の退任により『サスペンスマガジン』の廃刊も決定した。久保藤吉社長は、本が売れさえすれば自由にやらせてもらえたが、採算についてはシビアだった。
当時の久保書店で唯一の黒字出版物だった『サスペンスマガジン』の廃刊によって会社の経営がひっ迫し、1969年5月、久保社長は希望退職者の募集を行った。しかし労働組合との交渉がこじれ、6月、自分たちが解雇されたことを知らない組合員が出社してみると、会社は閉鎖されており、会社の隣に住んでいた久保社長一家は会社の書類や備品などを持ち出して失踪していた。組合員6名は直ちに久保書店を占拠した[9]。残った全従業員(7名)も退職を申し出た。組合は、久保書店を1年余り占拠したのち、現職相当復帰がなされた(久保書店事件、久保書店闘争)。
1972年、『サスペンスマガジン』が片山博友(島本春雄)を編集長として復刊する。ペンネームの由来は、久保書店の近くにある片山橋より[10]。
この頃、日本文芸社『漫画ゴラク』編集部にいた久保直樹が久保書店に入社し、「あまとりあ社」名義で刊行された1976年11月創刊のエロ劇画誌『漫画ドッキリ号』および『漫画ハンター』の編集長を務めた(しばらく「水野遥介」のペンネームを名乗っていた)。
1977年より「久保書店」名義で「久保書店ワールドコミックス」を刊行。第1弾は『皆殺しの雀鬼』。
1979年、『漫画ハンター』で内山亜紀が「デビュー」[11]。「ロリコン漫画」の代表的作家として、1980年代前半の「ロリコンブーム」の火付け役となる(実際は内山亜紀はそれ以前に「野口正之」名義で他紙でデビューしているが、1982年時点で、内山亜紀は「三流劇画誌」の『漫画ハンター』でデビューしたとみなされていた)。「三流劇画」ブームの1980年当時、内山亜紀は人気のあるエロ劇画家のひとりで、漫画ハンターの増刊号として『少女の妖精』(1980年10月)および『エロスの妖精』(1981年3月)が刊行されている。
1981年より「久保書店ワールドコミックススペシャル」を刊行。第1弾は内山亜紀『リボンと妖精』。久保直樹編集長の発案で、従来の漫画単行本で一般的だったB6判の代わりにA5判を用いたところ、これが当たり、『レモンピープル』の創刊以後に陸続と刊行される美少女コミックの単行本ではA5判が標準となる。
1980年、『サスペンスマガジン』が休刊。1981年、後継誌として『SMコマンド』が刊行されたが、半年で休刊した。久保書店におけるSM変態雑誌の流れはこれで終わった。
『レモンピープル』の創刊
1982年1月、エロ劇画誌『漫画ドッキリ号』休刊。代わりに同月、『レモンピープル』創刊。史上初の美少女漫画誌とされる(当時は「美少女漫画」ではなく「ロリコン漫画」と呼ばれた)。編集長は久保直樹。創刊当初は内山亜紀と吾妻ひでおが2枚看板だった。創刊当初はあまり人気がなかったが、創刊2号より連載された破李拳竜『撃殺!宇宙拳』や、1983年10月号より連載されたちみもりを『冥王計画ゼオライマー』などが人気作品となり、白夜書房の『漫画ブリッコ』とともに1980年代前半の「ロリコンブーム」を代表する雑誌となった。
1980年代後半、久保書店はAICと組み、『レモンピープル』の作品をOVA化。阿乱霊の同名作品を原作とする『戦え!!イクサー1』(1985年-1987年)、竜騎兵『DRAGON BREEDER』を原作とする『竜世紀』(1988年)などを制作した。この時期が『レモンピープル』の最盛期であり、その後は競合する美少女漫画誌の増加とともに次第に埋没していく。
1990年代には「ジアス・ブックス」レーベルで実用書をいくつか刊行しているが、この時期は完全に漫画が主力になっているため、数は少ない。
『レモンピープル』初期の作家陣は元々は草創期のコミケの同人作家を青田買いしてきたものであったため、コミケ代表の米沢嘉博が「阿島俊」名義で同人誌レビュー記事の連載を持つなど、コミケ運営陣とは関係が近く、コミケット・編による『パソコン同人ソフトカタログ』(1989年)や、阿島俊・編による『同人誌ハンドブック』シリーズ(1994年~)などを刊行している。
1998年より、美少女同人アンソロジーの『電影玉手箱』シリーズや、『美少女同人誌バトル』シリーズを刊行した。
1998年、『レモンピープル』休刊。レモンピープル増刊として1996年より刊行されていた『コミック桃色小町』が実質的な後継誌となるも、当時の競合のエロ漫画誌と比べて古臭くなっており、1999年10月に休刊。以後、久保書店から雑誌は刊行されず、単行本またはアンソロジーなどの書籍のみとなる。
雑誌撤退後
1999年、ロリコン系のアンソロジー『貧乳倶楽部』を刊行。当時は児童ポルノ禁止法の施行でエロマンガ業界が騒然とする中、編集者Kがネットのチャット(IRC)で出会った山野紺三郎に商業エロ漫画を描かせるのが半ば目的で独断で刊行されたので、社長からは相当怒られたそうだが、初版9000部が数日で売れて重版がかかると社長も手のひらを返し[12]、『貧乳シリーズ』としてシリーズ化された。この時期は会社の経営が厳しい中、久保書店は雑誌を発行できる体力が残っていなかったので、『貧乳シリーズ』を隔月で刊行した。
1999年から2007年にかけて『貧乳シリーズ』、および2008年から2014年にかけて『ぺたふぇち。』という、ロリコン系のアンソロジーを刊行。かにかにやガビョ布など、編集者K(「フリップ・サイド」名義)がコミケで見つけてきた作家が中心だったが、流星ひかるや狂一郎など『レモンピープル』系の作家も多く執筆していた。
1953年の設立から長く続いていた事務所は老朽化のため、2016年12月に取り壊しとなり、同じ敷地内に移転している[13]。
2025年10月12日、『レモンピープル』編集長の久保直樹が、79歳で死去。前月9月から病気療養中だった[14]。