おかん塚古墳
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上溝古墳群
| おかん塚古墳 | |
|---|---|
|
後円部墳丘・石室開口部 | |
| 所属 |
飯田古墳群(松尾単位群) 上溝古墳群 |
| 所在地 | 長野県飯田市松尾上溝2806ほか |
| 位置 | 北緯35度30分8.78秒 東経137度50分37.27秒 / 北緯35.5024389度 東経137.8436861度座標: 北緯35度30分8.78秒 東経137度50分37.27秒 / 北緯35.5024389度 東経137.8436861度 |
| 形状 | 前方後円墳 |
| 規模 |
墳丘長50m(推定復元) 高さ6.1m(後円部) |
| 埋葬施設 |
後円部:両袖式横穴式石室 前方部:無袖式横穴式石室 |
| 出土品 |
後円部石室:鈴・瓔珞、(伝)鉄刀・馬具・須恵器 前方部石室:鉄鏃・鹿角装刀子・馬具・臼玉・須恵器・土師器 |
| 築造時期 | 6世紀後半 |
| 史跡 | 国の史跡「飯田古墳群」のうち |
| 特記事項 | 1墳丘2石室 |
| 地図 | |
おかん塚古墳(おかんづかこふん)は、長野県飯田市松尾上溝(まつおあげみぞ)にある古墳。形状は前方後円墳。飯田古墳群(うち松尾単位群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「飯田古墳群」のうち)。
長野県南部、天竜川支流の松川南岸の舌状段丘上(標高422メートル)に築造された古墳である。現在までに一帯は宅地化して前方部墳丘は失われ、後円部墳丘も一部が削平されて東側は墓地として利用されている。1966年(昭和41年)・2006年(平成18年)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を西北西方向に向けた。墳丘外表で葺石・埴輪は認められていない。埋葬施設は、後円部における両袖式の横穴式石室、前方部における無袖式の横穴式石室の2基で、いずれも南方向に開口する(前方部石室は消滅)。特に後円部石室は畿内型石室の特徴を有する。副葬品として、後円部石室からは鈴12・瓔珞1が出土したほか、伝承では鉄刀・馬具・須恵器が出土したといい、前方部石室からは鉄鏃・鹿角装刀子・馬具・臼玉・須恵器・土師器が出土している。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半頃と推定される[1][2]。下伊那地方における代表的な首長墓の1つで、飯田古墳群のうち上溝古墳群では最後の前方後円墳と位置づけられ、馬背塚古墳と同様に1墳丘に形状の異なる2石室が構築される。
遺跡歴
墳丘
墳丘の規模は次の通り[2]。
- 墳丘長:41.8メートル(推定復元50メートル)
- 後円部
- 直径:14.5メートル
- 高さ:6.1メートル
- 前方部(消滅)
- 幅:12.7メートル
- 高さ:3.9メートル
埋葬施設
埋葬施設としては、後円部・前方部において各1基の横穴式石室が構築されている。
後円部石室


後円部石室(東石室)は両袖式横穴式石室で、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:10.6メートル
- 玄室:長さ4.55メートル、幅3.23-3.5メートル、高さ3.4メートル
- 羨道:長さ6.05メートル、幅1.6メートル、高さ1.9メートル
石室の石材には花崗岩の大石が使用される。玄室・羨道の区分が明瞭な畿内型石室と位置づけられ、玄室の天井は高い。
石室内からは、副葬品として鈴12・瓔珞1が出土している。また鉄刀・馬具・須恵器が出土したというが、詳細は明らかでない[2]。
- 玄室(奥壁方向)
- 玄室(開口部方向)
- 羨道(開口部方向)
- 羨道(玄室方向)
- 開口部
前方部石室
前方部石室(西石室)は横穴式石室で、南方向に開口した(現在は消滅)。石室の規模は、長さ3.1メートル以上・幅1.3-1.4メートル・高さ1.5-1.8メートルを測る[2]。
土取り中に発見され、当時の記録に基づけば無袖式の石室と推測される。調査時点ではすでに羨道部は破壊されており、石の積み直しが認められている。
石室内の調査では、副葬品として鉄鏃11・鹿角装刀子1・馬具15(轡・杏葉・鉸具・飾金具など)・臼玉2・須恵器片3(高坏・甕)・土師器片10(高坏)が出土している[2]。
