『続群書類従』(第五輯下)所収の「明智系図」によると、光秀の母は武田義統の妹で、明智光隆の妻となり光秀を生んだという[2]。また、進士信周を光秀の実父とする「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』所収)では、光秀の母は明智光隆の妹とされる。
『総見記』によると、織田信長の八上城攻めの際、光秀は波多野秀治らに開城を求め、身の安全の保証として母・お牧を人質として送った。波多野らは投降するも、信長は約束を破り彼らを処刑した。激怒した波多野の遺臣らはお牧の方を処刑したという(しかしこの話は創作の域を出ない)。
岐阜県恵那市明智町にはお牧のものとされる墓が残っている。