東雲節

From Wikipedia, the free encyclopedia

東雲節」、「しのゝめ節」(しののめぶし)、別名「ストライキ節」(ストライキぶし)は、端唄浮世節、ないし、演歌とされる、明治後期の1900年ころから流行した流行歌(はやりうた)のひとつ。一般的には、作詞者、作曲者は不詳とされ[1]、歌詞にも様々な異同があるが、横江鉄石添田唖蝉坊(不知山人)による「ストライキ節」を元したものと言われるが[2]、諸説あり、発祥は不明[3]

代表的な歌詞

代表的な歌詞一連は、以下の通り[4][5]。歌い出しの「何をくよくよ川端柳」という言い回しは都々逸で広く知られたものであり[1]、一説にはその原型は高杉晋作が作ったとも伝えられている[5]

何をくよくよ川端柳
 焦がるるなんとしょ
水の流れを見て暮らす
 東雲のストライキ
 さりとはつらいね
  てなこと仰いましたかね

あるいは

丸い玉子も切りやうで四角
こがるゝ何としょ
物も言ようで角が立つ
東雲のストライキ
さーりとは辛いね
テナコト,ヲツシャリマシタカネ

「何をくよくよ川端柳…水の流れを見て暮す」は、慶應年間の流行唄の歌詞だったと言われ、明治に入ってからもさまざまな流行唄で繰り返し使われており、「丸い卵も切り様で四角…物も言い様で角が立つ」も同様に流行唄で使われ続けた歌詞である[3]。研究者・林葉子が調査した唄本によると、廃娼運動を反映したと思われる「東雲のストライキ」の歌詞が唄本に現れるのは1900年12月のストライキ節からである[3]

「ストライキ節」

添田唖蝉坊は著書の中で、横江鉄石とこの曲を作った際に、先行した「ドンドン節」を原型としたと述べているが[4]、息子の添田さつきは、歌詞は唖蝉坊のもので、曲は「パツパよかちよろ」を踏まえたものとしている[5]

唖蝉坊はまた、「私たちのはストライキの事実があっての作ではなく、自廃(自由廃業)で(廓を)飛び出すことをストライキと仮に表現したのであった」としており、「後年、東雲楼の娼妓がストライキをやったのでこの歌ができたといはれたり、それにも名古屋説と熊本説があったりしたのは面白いことだ」とも述べている[4]

代表的な歌詞

添田さつき添田唖蝉坊作として紹介した歌詞[5]

自由廃業で廓は出たが
 ソレカラ、ナントショ
行き場ないので屑拾い
 ウカレメのストライキ
 サリトハ、ツライネ
  テナコト
  オツシヤイマシタカネ

啞蟬坊自身は,自伝『啞蟬坊流生記』(1941年)の中で、これらの歌詞は替え歌である、としている[3]。また、ストライキ節(東雲節)は貧困の辛さや汚職等の不正を訴えた唄であったと言われてきたが、林の調査によると、ストライキ節が流行しはじめた1900年から1901年にかけて刊行された唄本に見られる歌詞のほとんどは、そうした社会問題ではなく、遊女らの間夫に対する恋愛感情と結婚願望を表現したものであったという[3]

東雲の由来に関する説

歌詞の「東雲のストライキ」については、東雲という名の娼妓のことか、東雲楼という名の娼館のことかはわかっていない。ストライキについては、前述のとおり、添田唖蝉坊は実際のストライキを指した訳ではないと述べているが、巷間では以下の2説(名古屋説、熊本説)が広く流布されていた。

1930年代末に添田唖蝉坊は熊本説が有力だと聞いて熊本を訪ねたが、伝説のようで真相は掴めなかったとしている。1940年にはサンデー毎日が名古屋と熊本で関係者に取材したが、やはり確証を得ていない。また、先述の林は「東雲」は娼妓でも楼でもなく、娼妓の源氏名によくあった東雲を娼妓全体の代名詞として用いたものであり、東雲節の流行の発祥は名古屋・熊本ではなく、東京であると見ている[3]

名古屋の事件に由来するとする説

歌詞の内容については、名古屋で起きた廃娼運動に関わる事件に由来するとする説が広く流布している[6]。そのひとつは、東雲(しののめ)という名の娼妓が廓を脱出した一件を歌ったものとする説であり、もうひとつは東雲楼という廓で娼妓のストライキがあったとする説である[6]

前者については、娼妓の東雲が、アメリカ人宣教師の助力を得て退楼したなどとされる[1][2]。名古屋ではモルフという宣教師が廃娼を呼びかける辻説法を盛んにしており、自由廃業届の委任状を娼妓から集めていたという[5]

後者については、名古屋旭新地(中村遊廓)の東雲楼(1899年開業)でストライキがあったとされるが[6]、当時の経営者であった川島勇次郎は、そのような事実はなかったと後に証言している[5]。川島によると、他の楼では自主廃業の娼妓が出たものの東雲楼では一人もおらず、廓事務所の記録にもないのだが、1932年にある著名人が「名古屋の東雲楼のことだ」と書いたため、名誉棄損で訴えたという[5]

取材したサンデー毎日は、娼妓の自由廃業については1899年に函館の坂井フクが提訴したのが最初だが、最初に勝訴したのが名古屋の2名であったため、名古屋の事件として広まったのだろうとしている[5]

熊本の事件に由来するとする説

1900年、全国的な廃娼運動は九州にも及び、熊本でも自由廃業を行うものが出てきたとき、熊本一と言われた二本木遊郭の妓楼「日本亭」(その直後に「東雲楼」と改称)の経営者であった中島茂七(1849-1927)は、それに対処する上で中心的な役割を担った[5][7]。中島は大阪米相場で財を成した人物で、水前寺成趣園を模した3千余坪の本格庭園を持つ料亭の東雲楼と妓楼の日本亭を経営し、東海道五十三次の宿場名を付けた娼妓約80人を抱えていた[8]。そこから、熊本では「東雲」、「中島茂七」、「斎藤」(番頭の名)といった言葉を歌い込んだ風刺的な歌詞が成立したという[5][7]。また別の説では、借金減額を求める娼妓たちの動きが東雲楼にあったともいう[5]

熊本説の代表的な歌詞

東雲楼で働いていた内村ミスが紹介した歌詞[5]

花岡山から東雲みれば
 倒るるナントショ
金はなかしま(中島) 家も質(茂七)
 シノノメのストライキ
 さいと(斎藤)は、ツライネ
  テナコト
  オツシヤイマシタカネ

東京説

唄本などの資料から東雲節を研究した林は、当時の新聞記事などから、啞蟬坊作とされる唄などより先に娼妓ら自身たちによって東雲節は作られ歌われていたとし、関東弁(東京言葉)の「てなことおっしゃいましたかね」がどの歌詞でも共通していることなどから、東京が発祥であろうとしている[3]

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI