しのびね
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梗概
稀代の美男子として名高く、帝からも寵愛される内大臣の息子の四位の少将(名はきんつね、物語の進展に伴い中将・中納言を経て出家し中納言入道)には、桐壺の御方としてすでに入宮している高名な胞妹がいた。ある秋の日、少将が嵯峨野へ紅葉を観賞に訪れた折、寂しげな草庵から聞こえる美しい琴の音に惹きつけられる。音の主は、母代わりの尼君とひっそりと隠れ住む美貌の姫君(後の中宮、しのびねの女院)であった。少将は姫君と契りを結び、やがて二人の間には男児(名はあこ、後の若君)が誕生する。
しかし、少将が中将に昇進した頃、父である内大臣は彼を左大将の姫君と政略結婚させる。左大将の姫君は色白で大柄な女性であったが、中将の目には元の姫君に遠く及ばないように映り、中将は彼女に対して冷淡な態度を取り、結婚翌朝も早々に立ち去ってしまう。中将は正妻を顧みず、ひたすらに元の姫君の元へ通い続けた[注釈 1]。これを快く思わない内大臣は、中将が七日間の物忌みで身動きが取れない隙を狙い、姫君のもとへ使者を送りつけて心無い言葉で非難し、邸から追い出してしまう。姫君は我が子を内大臣邸に残し、中将へ宛てた和歌を書き残して行方をくらませる。
居場所を失った姫君は、縁者である宮中の典侍を頼って身を隠す。しかし、そのたぐいまれな美貌が帝の目に留まり、見初められて寵愛を受けることとなる。帝から深く愛されながらも、姫君は中将への思いを断ち切れず、ただ一人「しのび泣く」日々を送っていた[注釈 2]。
一方、中納言へと昇進した青年は、行方不明となった姫君を必死に探し求める。ある日、宮中をさまよっていた中納言は、承香殿で帝のそばで泣き沈む女性の姿を偶然目撃し、それが愛する姫君であることに気づく。帝の寵愛を受ける彼女を奪い返すことは叶わず、運命の残酷さと世の無常を深く悟った中納言は、幼い我が子との別れを惜しみつつもすべてを捨てて比叡山の横川へと赴く。当初、横川の高僧は内大臣の怒りを恐れ、若く前途ある彼を出家させることを強く拒んだが、中納言の長年の決意と固い懇願に抗いきれず剃髪を引き受けることとなる。落髪の最中、中納言は残してきた我が子や姫君の面影を思い出して止めどなく涙を流し、華やかな装束を捨てて藤の衣に麻の袈裟を身につけ、完全に出家遁世する[注釈 3]。
その後、帝の寵愛を一身に集めた姫君は、帝との間に皇子をもうける。その皇子が東宮に立てられたことで、姫君は中宮にまで上り詰めにのちに女院(しのびねの女院)となる。中納言と姫君の間に生まれた若君も、帝の手厚い庇護を受けて立派に成長し、9歳で元服して侍従となり、11歳で少将、12歳にして中将へと順調な昇進を果たす。立派に成長した若君は、幼い頃に生き別れ行方知れずとなっている父を求めて比叡山を訪ね歩き、横川の苔生す庵で法華経を読誦する父・中納言入道と奇跡的な再会を果たす。父子は涙ながらに過去を語り合い、入道が我が子に仏の道を説き聞かせる。
最終的に、若君は二位の中納言へと昇進し、右大臣の次女・中の君を正妻に迎えて幸せに暮らす。また、かつて中納言を苦しめた政略結婚の相手である左大将の姫君は、成長した新帝の女御として入内する。若君が絶えず父のもとを訪れて孝養を尽くし、父の代のような家庭の破綻や放浪を繰り返すことなく順調な生涯を送るところで物語は大団円を迎える。
和歌一覧
| 番号 | 本文および注釈 | 詠歌者 | 背景 |
|---|---|---|---|
| 1 | よのつねの色とやおもふひまもなく袖の時雨にそむるもみぢを[注釈 4] | 四位の少将(きんつね) | 秋の嵯峨野に迷い込んだ少将が、姫君の住む庵を見つけて宿を借り、侍女に対して自身の真剣な恋心を訴えかける場面 |
| 2 | さらぬだにはれますくなき山里に袖のしぐれをなにとそふらん[注釈 5] | 中納言の君(姫君に仕える侍女) | 少将の歌に対し、侍女が場を取り繕うように返した歌 |
| 3 | 君と我とよどのはかれじながきねのためしにひけるけふのあやめに[注釈 6] | 宰相中将(きんつね) | 端午の節句に中将が姫君の元を訪れ、二人の永遠の愛を誓い合った場面 |
| 4 | 数ならぬうき身をしればあやめぐさいつもたもとにねぞなかれける[注釈 7] | 姫君(しのびねの女院) | 中将の愛の誓いに対し、姫君が自身の身分の低さを嘆き将来への不安を吐露した場面 |
| 5 | あられふりさゆる霜夜におきわかれ今宵ばかりやかぎりなるらん[注釈 8] | 中将が正妻・左大将の姫君を迎える政略結婚を知った姫君が、夜明けの別れ際に悲しみと強い不安に暮れて詠んだ歌 | |
| 6 | いかでかはかぎりなるべき我がやどのこころいたやのあられふるとも[注釈 9] | 中将(きんつね) | 不安がる姫君に対し、中将が己の変わらぬ愛を訴え必死に慰めようとした場面 |
| 7 | うきことを心ひとつにおもはずはなぐさむほどの夢もみてまし[注釈 10] | 姫君(しのびねの女院) | 正妻を娶った中将が訪ねてきた際、姫君が昨夜は夢も見られないほど一人で思い悩んでいたと訴えた場面 |
| 8 | まどろまで見えつる夢のかなしさをなぐさむほどや君にかたらん[注釈 11] | きんつね | 姫君の嘆きに対し、中将が「自分もあなたを思い眠れぬまま悲しい夢を見た」と応じた場面 |
| 9 | 逢坂の関にやきりのたちつらんこえての後もなほまどふらん[注釈 12] | 中将が正妻と初めて契りを交わした翌朝、形式的な後朝の使いとして送った歌 | |
| 10 | あふ坂のせきには霧も隔てねどおもはぬ道やなほたどるらん[注釈 13] | 左大将の姫君 | 中将の心が自分に向いていないことを察した正妻が、中将の心ここにあらずな歌に対して皮肉を込めて返した場面 |
| 11 | たちかへりちぎりて出でしおもかげをうき身にそへてわれぞわすれぬ[注釈 14] | しのびねの女院 | 中将の父である内大臣の迫害を受け、中将の留守中に姫君が身を引く覚悟で邸を去る際、書き残した別れの歌 |
| 12 | かきくれて行くべきかたもおぼえぬになみだばかりぞさきにたつらん[注釈 15] | 宛てもなく彷徨い出る絶望的な心情を詠んだ、中将宛ての二首目の別れの歌 | |
| 13 | なでしこの露のゆかりのかれぬればははちりぢりになるぞかなしき[注釈 16] | 姫君が我が子・若君を邸に残して去る際、身を切られるような子との別離を悲しんで詠んだ歌 | |
| 14 | 人しれず恋を時雨のはつゆきはなみだの雨にきえやわたらん[注釈 17] | 内(院) | 雪の日に管弦の遊びを催そうと中納言を召し出した帝が、恋煩いで痩せ細った彼の美しい姿に目を留め、からかいと同情を交えて詠みかけた場面 |
| 15 | 世にあらん心地こそせね行へなき月のすみかをそこと見しより[注釈 18] | 中納言(きんつね) | 宮中で帝の寵愛を受ける姫君の姿を偶然目撃し、もはや永遠に手の届かない存在となった絶望を詠んだ歌 |
| 16 | うはの空にあくがれ出でし月かげはそこはかとなくかげやたえなん[注釈 19] | しのびねの女院 | 中納言の姿に気づいた姫君が、身を任せるしかない己の数奇な運命と、中納言への断ち切れぬ未練を月に託して詠んだ場面 |
| 17 | 有明の月は雲井にすみはててよをこそ山のおくにいるとも[注釈 20] | きんつね | 姫君が帝のそばに留まることを見届けた中納言が、未練を断ち切り出家遁世する決意を詠んだ歌 |
| 18 | 思ひいるみ山がくれのすまひにもかたみにつなぐ人のおもかげ[注釈 21] | 出家して比叡山の横川に隠棲した中納言入道が、修行の身でありながらもなお消え残る姫君への思慕を詠んだ場面 | |
| 19 | うき人のかたみのあふぎをりをりに涙をさそふ風ぞふきそふ[注釈 22] | しのびねの女院 | 出家して姿を消した中納言を思い、手元に残された形見の扇を前にして姫君がとめどない涙を流して詠んだ歌 |