わが青春の北壁/西城秀樹

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リリース
録音 1977年7月28日
時間
『わが青春の北壁/西城秀樹』
西城秀樹ライブ・アルバム
リリース
録音 1977年7月28日
ジャンル ミュージカル
時間
レーベル RCA / RVC
西城秀樹 アルバム 年表
ロックンロール・ミュージック/ヒデキ
(1977年)
わが青春の北壁/西城秀樹
(1977年)
ブーツをぬいで朝食を
(1978年)
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わが青春の北壁/西城秀樹』(わがせいしゅんのほくへき さいじょうひでき)は、西城秀樹の3枚組ライブ・アルバム[1][2][3]。1977年12月20日にRCAから発売された。

1977年7月28日に日生劇場において開催された、西城秀樹・初のミュージカル劇団四季)「わが青春の北壁」の模様が収録されている[2]アルバムジャケットオレンジ[2]

収録曲

Disc.1(RVL-6004)
全作詞: 阿久悠、全作曲・編曲: 三木たかし
#タイトル作詞作曲・編曲
A1.「序曲〜雪のベッドで見た夢は」(一幕)阿久悠三木たかしアンサンブル
A2.「セクシーロックンロール・バンド」(一幕)阿久悠三木たかし西城秀樹とアンサンブル
A3.「ソウルベイビー」(一幕)阿久悠三木たかし西城秀樹とアンサンブル
B1.「サマーメランコリー」(一幕)阿久悠三木たかし菱谷紘二
B2.「嘘をつくな」(一幕)阿久悠三木たかし西城秀樹とアンサンブル
Disc.2(RVL-6005)
全作詞: 阿久悠、全作曲・編曲: 三木たかし。
#タイトル作詞作曲・編曲
A1.「兄がいた」(一幕)阿久悠三木たかし西城秀樹・久野綾希子
A2.「ブルースカイ・ブルーマウンテン」(二幕)阿久悠三木たかしアンサンブル
A3.「時は流れて」(二幕)阿久悠三木たかし西城秀樹・久野綾希子
B1.「禁じられた愛」(二幕)阿久悠三木たかし西城秀樹
B2.「心を残して」(二幕)阿久悠三木たかし滝田栄とアンサンブル
Disc.3(RVL-6006)
全作詞: 阿久悠、全作曲・編曲: 三木たかし。
#タイトル作詞作曲・編曲
A1.「人生はサーカスだ」(二幕)阿久悠三木たかし菱谷紘二・菅本烈子とアンサンブル
A2.「雪の幻想」(二幕)阿久悠三木たかしダンス・シークェンス
B1.「別れの口づけ」(二幕)阿久悠三木たかし久野綾希子
B2.「ソウル・ベイビー」(二幕)阿久悠三木たかし西城秀樹・菱谷紘二
B3.「わが青春の北壁」(二幕)阿久悠三木たかし西城秀樹
B4.「フィナーレ[注 1](二幕)阿久悠三木たかし 

ミュージカル

1977年7月5日7月28日(11、18日休演、28日は追加公演) - 日生劇場(制作・劇団四季・日本ゼネラルアーツ、作・阿久悠、演出・浅利慶太、主演・西城秀樹)[2][4][5]。S席4500円、A席3800円、B席3000円、C席2000円[2]。7月27日までの予定だったが、完売により7月28日に追加公演が行われた[2]

あらすじ

山男の有光良(西城秀樹)は山を捨てナイトクラブで働く。良の兄・有光洋(滝田栄)は有名な登山家だったが、3人の友人を山で失い、自身も大ケガを負った。その北アルプス北壁に弔い合戦を決意。同行するのは妻の有光夏子(久野綾希子)と弟・良。良が山を捨てていたのは義姉・夏子を愛してしまったからだった。有光洋・夏子は遭難し、死に至る。死を目前にして夏子は良を以前から愛していたと告白する[6]

スタッフ

キャスト

制作

三木たかしが『ジーザス・クライスト・スーパースター』の大ファンだったこと[3]、西城秀樹も劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレム版」に感銘を受けたこと[3]、当時、日本のミュージカルスターでお客を呼べる役者はまだいなかったこと[7]、などの条件が重なり[3][6][7]阿久悠がアクション歌手・西城のために[6]、ミュージカルを創作し[6][7][8][9]、西城一人と劇団四季とのジョイントが実現した[3][6][7][9]。西城はミュージカル初挑戦[3][6][7][9]。制作記者会見は1977年1月11日にあった[2]。阿久悠台本・作詩、三木たかし作曲、浅利慶太演出で、1977年7月5日-7月28日、日生劇場で公演が行われた[3][5][6][9]。浅利は西城の起用について「今の歌手の中で、歌、プロポーション、踊りのバランスが揃っているのはヒデキぐらいしかいない。レッスンで初めて知ったのだが、彼はすごく三半規管がいいんだ。こういい人はミュージカル・スターとして大成する」と述べた[5]。音楽も含めて全て創作ミュージカルというのは当時としては珍しく[5]、浅利は「"創作"はまったく北壁にも登るような苦しみ。ブロードウェイ・ミュージカルを翻訳した方がはるかに楽です。しかし日本のミュージカルスターを育てていかなきゃならない。22歳のヒデキを5年、6年先にスターにしたい。何よりヒデキにやる気があるのがいい」などと述べた[5]

評価等

西城は1977年6月5日に21枚目のシングルセクシーロックンローラー」をリリースし、ヒットチャートの上位に上っていたときだったが[5]、ステージに専念するため、初めて約1か月半テレビに出演しなかった[2][5]。6月19日から公演終了までは雑誌の取材は少し受けたが[2]、テレビ・ラジオ、レコーディング等、ミュージカル以外の仕事は一切やらず[2]。本公演に足を運んだファン以外で西城が観れたのは、1977年8月2日にラジオ関東でオンエアされた神奈川県三浦海岸でのワンマンコンサートだった[2]。歌手業とミュージカルの兼任は体力的にもムリだった[5]。アイドル歌手として超多忙だった西城は、四季の稽古場に1ヵ月、休むことなく通い[6][7][9]、四季独特の発声法を学んで舞台に臨んだ[9]。山と都会の場面が交錯しながら、ダンスや歌で彩られる[6]。西城のセリフ回しにはやや難があるが[6]、歌とダンスは及第点で[6]、当時、日本の創作ミュージカルは愚作続きと評されていたが[6]、本作は良作と評判を呼んだ[6]

スタジオ・アルバム

復刻盤

脚注

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