アデライデ・デル・ヴァスト

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アデライデ・デル・ヴァスト
Adelaide del Vasto
エルサレム王
在位 1113年 - 1117年

出生 1075年
死去 1118年4月16日
埋葬 シチリア王国パッティ
配偶者 シチリア伯ルッジェーロ1世
  エルサレム王ボードゥアン1世
子女 シモーネ
ルッジェーロ2世
家名 デル・ヴァスト家
父親 マンフレード・デル・ヴァスト
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アデライデ・デル・ヴァスト(Adelaide del Vasto, 1075年頃 - 1118年4月16日)またはアデラージア/アザライス(Adelasia/Azalaïs)は、シチリア伯ルッジェーロ1世の3番目の妻、のちエルサレム王ボードゥアン1世の王妃となった。1101年から1112年まで、息子シチリア伯ルッジェーロ2世が未成年であった間、シチリアの摂政を務めた。

アデライデの統治期は、アラブ諸王朝の支配からシチリア王国の正式な建国へと至る過渡期にあたり、シチリアの歴史的アイデンティティにおける二大転換の中間に位置づけられる。アデライデの治世下、ノルマン人の征服による経済的・社会的変化は多くの反乱と社会的な緊張を引き起こしたが、アデライデはこれらを驚くべき速さで処理した。

アデライデはマンフレード・デル・ヴァスト(西リグーリア侯ボニファーチョ・デル・ヴァストとアンセルモ・デル・ヴァストの兄弟)の娘であった。

父方の祖父母は、テウト2世・デル・ヴァストとその妻でトリノ辺境伯オルデリーコ・マンフレーディ2世の娘ベルタである。

1089年、アデライデはルッジェーロ1世と結婚し、妹はルッジェーロ1世の庶子ジョルダーノと結婚した。ルッジェーロ1世は1101年に亡くなり、アデライデは幼い息子シモーネルッジェーロ2世のためにシチリアの摂政として統治した。その在位中、アミール・クリストドゥルスが宮廷で権力を握り、パレルモが王国の首都となった。

アデライデの摂政期は、ノルマン的アイデンティティが一次史料の記述によって強く規定されていた時代にあたる。後世においてそのアイデンティティは再評価されることになるが、11世紀の文章表現は、ノルマン人をランゴバルド人の傭兵にとどまらない、非常に男性的な集団として特徴づけた。亡命の克服や征服への欲求といった要素が史料において強調され、ノルマン人像は男性性に著しく傾斜したものとなった。このことはアデライデの摂政としての役割の位置づけにも大きな影響を与え、軽視されることとなった。アデライデは息子の未成年の間における暫定的な統治者として位置づけられた。

アデライデが摂政に就任して間もなく、カラブリアとシチリアの一部で反乱が勃発した[1]。ノルマン人の修道士オルデリック・ヴィタリスの著作には、アデライデがこれらの反乱を厳しく鎮圧したことが記されている[2]。しかし、これらの反乱を鎮圧するために強大な武力を行使したにもかかわらず、アデライデの統治者としての評判は傷つけられなかった。実際、テレーゼの修道院長アレクサンデルが著したルッジェーロ1世の歴史書では、アデライデは「非常に賢明な女性であり、政府を管理し、領土を統治した」と記されている[3]

1109年のギリシャとアラブの特許状は、アデライデを「偉大なる女君主、シチリアとカラブリアのマリカ(女王)、キリスト教信仰の守護者」と評している[4]

アデライデの統治下、シチリアは文化的に多様で、ラテン系キリスト教徒とアラブ系イスラム教徒がそれぞれ都市に住み、それぞれに行政機関と司法機関があった。シチリア王国が台頭する以前は、キリスト教徒とイスラム教徒はしばしば混交し、中には結婚する者もいた。数十年後、キリスト教徒が正式に権力を握り、権力構造は大きく変化したが、アデライデの治世下、社会の安定は保たれた。

アデライデの長男シモーネは適切な年齢(8歳から9歳頃)に達したときに即位したが、1105年に亡くなった。そのため、1112年にルッジェーロ2世が成人するまで、アデライデは再び摂政を務めた[5]。アデライデの次男ルッジェーロ2世は1112年に実権を握ったが、1112年以降も公式文書にアデライデの署名が見られることから、アデライデがシチリアの統治において中心的な役割を果たし続けていたことがわかる[6]

エルサレム王妃として

一方、エルサレム王国では、ボードゥアン1世第1回十字軍の最中に最初の妻ゴデヒルド・ド・トニーを亡くした後、アルダという名で知られるアルメニア人貴族の女性と結婚した。アルダはボードゥアン1世がエデッサ伯であった間、アルメニア人との同盟において有用であったが、1100年にエルサレム王となったボードゥアン1世はアルメニア人の妻をあまり必要としなかったようで、アルダは1105年頃に修道院に入れられた。

1112年、王は新たな結婚相手を探した。エルサレム総主教アルヌール・ド・ショックは、ルッジェーロ2世がシチリアを単独で統治できる年齢に達していたため、ボードゥアン1世にアデライデとの結婚を提案した。ボードゥアン1世はシチリアに大使を派遣し、アデライデが提示する条件にやや性急に同意した。アデライデは、もし息子が生まれた場合はその息子がエルサレムを継承し、もし子供がいない場合は自身の息子ルッジェーロ2世に王国を譲ることを要求した。アデライデは既に中年期に入っており、新たな後継者が生まれる可能性は低かった。王は重婚の罪で告発され(アルダはまだ存命であったため)、総主教アルヌールは廃位された。教皇パスカリス2世は1116年、ボードゥアン1世とアデライデの婚姻を無効にすれば復位に同意した。ボードゥアンは病に倒れ、重婚の罪を捨てれば治ると考え、この申し出に同意した。1117年、アッコで婚姻無効の手続きが行われ、アデライデはシチリア島へ帰航した。

アデライデは1118年4月16日に亡くなり、パッティに埋葬された。ルッジェーロ2世は母への仕打ちに憤慨し、エルサレム王国を決して許さなかった。30年近く経っても、ルッジェーロ2世は第2回十字軍の際、十字軍諸国への援助を拒否し続けた。ギヨーム・ド・ティールはこの事件の影響について次のように記している。

「アデライデの息子は、母が送還されたことに計り知れないほどの怒りを覚えた。ルッジェーロ2世は王国とその民衆に対して、死に至るほどの憎しみを抱いた。世界各地の他のキリスト教諸侯は、自ら来訪するか、惜しみない贈り物を与えることで、我々の揺るぎない王国を繁栄させてきた。しかし、ルッジェーロ2世とその子孫は、今のところ、友情の言葉一つでさえ我々と和解していない。彼らは他の諸侯よりもはるかに容易に、助言と援助によって我々の窮状を救済できたはずである。しかし、彼らは常に自らの過ちを忘れず、一人の人物の過ちを不当に民衆全体に報復したのである。」[7]

子女

脚注

参考文献

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