アドルフ・トレンデレンブルク
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アドルフ・トレンデレンブルクは1862年、ブィドゴシュチュの王立ギムナジウムでアビトゥーアに合格した。1867年にはボン大学で教員資格試験 (独: Lehramtsprüfung) に合格し、「ギリシャ文法学者たちの悲劇論に関する残された考察 (独: Grammaticorum Graecorum de arte tragica iudiciorum reliquiae)」というタイトルの論文で博士号を取得した。同年、ブィドゴシュチュのギムナジウムで試用期間を開始し、1869年に正式採用され、1871年には上級教員 (独: Oberlehrer) となった。
1870年から71年には、ドイツ考古学研究所の旅行奨学金を得て地中海地域を巡る機会を得た。1872年にはベルリンのフリードリヒス・ギムナジウムに転任した。1875年にアスカニア・ギムナジウムが創設されると、そこで上級教員、研究顧問、1890年からはギリシャ語教授として教鞭を執り、カール・アントン・ノイゲバウアーをはじめとする学生たちに古代世界の教育を情熱を持って行った。ノイゲバウアーは1941年に『考古学通報 (独: Archäologischer Anzeiger) 』にトレンデレンブルクの追悼文を書いている。
1902年、フリードリヒス・ギムナジウム (独: Friedrichs-Gymnasium) の校長に就任し、オットー・レーゲンボーゲンにも少なからぬ影響を与えた。彼はベルリン考古学協会との関係を深め、1881年から1901年まで会計係、1902年から1904年まで書記、そして1912年には会長を務めた。
トレンデレンブルクの墓はベルリン=ヴェディングのドーム墓地IIにあったが、現存していない[1]。
