アニタ・ニューカム・マギー
アメリカ合衆国の医師 (1864-1940)
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若年期と教育
アニタ・ニューカムは1864年11月4日にワシントンD.C.で生まれた。父は天文学者・数学者のサイモン・ニューカムである。妹のジョセファ・ニューカム・ホイットニーは美術学校アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで学び[1]、風景画を描いたほか、女性参政権運動に積極的に関わり、1922年には州上院議員選挙の候補者となった[2]。
アニタは1882年にワシントンD.C.の私立学校を卒業した後、3年間世界を旅行して、イギリス・ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジやスイスのジュネーヴ大学の授業を聴講した[3]。
1888年に地質学者・人類学者のウィリアム・ジョン・マギーと結婚した。2男1女をもうけたが、次男は生後9か月で死去した。
1892年にコロンビアン・カレッジ(現ジョージ・ワシントン大学)で医学博士号を取得した。その後、ジョンズ・ホプキンス大学で婦人科の大学院特別課程を修了した。
キャリア


マギーは1892年から1896年までワシントンD.C.で開業医として活動した。当時のワシントンD.C.において診療を行っていた数少ない女性医師の一人だった[4]。また、アメリカ海軍天文台に所属し少将の地位にあった父を通じてアメリカ軍とのつながりがあった。
1898年4月に米西戦争が勃発すると、アメリカ革命の娘たち病院部隊の創設者兼部隊長のマギーは、陸海軍に従軍する志願看護師を養成した[5]。1898年8月29日、マギーはアメリカ陸軍で唯一の女性臨時副軍医に任命され、陸軍軍医総監配下の従軍看護師の指揮を任された[4]。米西戦争終結後、マギーは恒久的な看護師部隊の創設のために尽力し、マギーが起草に協力した「陸軍再編法」の成立によって、1901年にアメリカ陸軍看護隊が発足した。1898年に米西戦争看護師協会を設立し、1900年に陸軍を離れた後も、その指導を続けた。また、アーリントン国立墓地に米西戦争看護師記念碑を建立するためにも尽力し、1905年5月2日に除幕式が行われた[6]。
日露戦争が勃発すると、マギーはメアリー・E・グラッドウィンを始めとする9人の志願看護師とともに日本に向かい、1904年4月に横浜港に到着した[4]。日本の陸軍大臣はマギーを看護師長に任命し、陸軍将校と同等の階級を与えた。マギーとアメリカ人看護師たちは、日本赤十字社の看護師たちとともに、大日本帝国陸軍の病院である広島予備病院(広島衛戍病院)で救護に従事した[7]。1904年6月には病院船「博愛丸」を視察し、また、愛媛県松山市に日本が設置した捕虜収容所を視察した[4]。1904年7月には朝鮮に渡り、安東の野戦病院を視察した[4]。マギーとともに来日した看護師たちは1904年11月にアメリカに帰国したが、マギーは日本に残り、1905年には満洲の日本陸軍の医療駐在武官兼オブザーバーを務めた後に帰国した。
その後マギーは、マサチューセッツ州ウッズホール、カリフォルニア州サザンパインズと居を変えつつ、カリフォルニア大学での講義や戦場での体験についての執筆を行った。

マギーは1940年10月5日に脳出血により死去した。遺体はアーリントン国立墓地の父の墓の隣に、軍人としての名誉をもって埋葬された[8]。
賞と栄誉
マギーはアメリカ革命の娘たちおよび米西戦争退役軍人会の会員だった。
マギーは米西戦争中の功績によりアメリカ陸軍から米西戦争従軍章を受章した。また、日露戦争中の功績により、日本政府から宝冠章と明治三十七八年従軍記章を、日本赤十字社から日本赤十字勲章を受章した。