アフマド・タウフィーク・エルマダニー(以下、マダニー)は1898年11月1日にチュニジアのチュニスにて生まれ、両親はオスマン帝国時代にアルジェリアへ移住したトルコ人(フランス語版)の家系であった[1]。両親はモクラーニーの反乱(フランス語版)が失敗した後の1872年にチュニジアに移り住んでいた[2]。マダニーはズィートゥーナ大学(フランス語版)で1913年から1915年まで学び[3]、民族主義党派、ドゥストゥール(フランス語版)の創設に関わった。ドゥストゥールでは、党首のアブデルアズィーズ・サアールビー(フランス語版)のようにアルジェリアにルーツを持つ他の党員から頼りにされた。マダニーはチュニス城塞(フランス語版)の兵舎のど真ん中に堂々と忍び込み、サアールビーに会いに行ったことで名を挙げた。
マダニーは1925年にアルジェリアに追放されるが、そこで、アブデルハミード・ベン・バーディース(フランス語版)師を中心に結成されたアルジェリア・ムスリム・ウラマー協会(フランス語版)の創設にたずさわり、協会規定を起草した[2]。1931年には Al Shihab 紙の政治記者になり、Al Basa’ir 紙の主筆もつとめ、1952年には民族解放戦線(FLN)の常任秘書に任命された[3]。
1956年にマダニーは盟友のアブデルハミードとともにカイロへ行き、フェルハート・アッバース(フランス語版)を代表とするアルジェリア共和国暫定政府(GPRA)の創設に参加した。マダニー自身はカイロにおいてFLNとアラブ人との関係を取り扱うFLN側の事務所の所長に任命されるだろうという程度に考えていたが、暫定政府はマダニーを文部大臣に任命した[2]。さらに1962年のアルジェリア独立後、ベン・ベッラを大統領とする共和国政府は、マダニーを宗教問題とワクフ財を管轄する省の大臣に任命した[2]。マダニーはその後、イラク、トルコ、イランに駐在するアルジェリア大使を歴任した。
マダニーは歴史学者であり、カイロのアラビア語アカデミーの会員であった。マグリブに関する著作が多数ある: Histoire de l'Afrique du Nord, ou Carthage en quatre siècles, Le Livre de l'Algérie, Les Musulmans en Sicile et dans le sud de l'Italie, La Géographie de l'Algérie et Ibn Khaldoun et l'Algérie[2]。回顧録も複数書いており、チュニジア人の民族主義を鼓舞することを目的とした Hannibal (1950) という戯曲も書いた。
歴史学者のアリー・ムラド(Ali Merad)は、 « il fut l'un des personnages qui contribueront le plus activement à l'élaboration du nationalisme au cours de l’entre-deux-guerres » (マダニーが両大戦期を通じて(チュニジア、アルジェリアに)ナショナリズムを作り上げるため活動した人物の中でも最も影響力があった)と述べた[2]。