1960年9月、月刊誌『アラキリ』を創刊した。「思い邪なる者に災いあれ」と題したフレッドの表紙画には、赤い背景に切腹侍が描かれている。当初は小さな版(15.5 x 23.5 cm)で発行数10,000部、価格は1.90フラン、街頭新聞売りによる販売のみだった。第3号からやや大判(21 x 27 cm)になり、キオスクで販売されるようになった。若い風刺画家が次々と集まり(1960年にカビュ、1961年にジェベ (Gébé: Georges Blondeaux)、トポール (Roland Topor)、ウォランスキ)、1961年4月の第7号から「バカで意地悪な新聞」というスローガンを使うようになった。1961年と1966年に発禁処分を受け、1967年に再開したものの深刻な経営難に陥り、アラキリ社は破産申立を行った。ベルニエはこの代わりにスクァール社を設立し、事務所を移転した。
1970年に再び発禁処分を受けた。1970年11月9日にコロンベ=レ=デュー=エグリーズでフランス第18代大統領シャルル・ド・ゴールが死去したことを受けて、11月16日号の見出しを「コロンベで悲劇のダンスパーティ ― 犠牲者1人 (Bal tragique à Colombey - un mort)」としたからである。これは11月1日にサン=ローラン=デュ=ポン(イゼール県)のディスコテーク「5-7」で起こった放火事件(死亡者146人)に関する新聞の見出しのパロディーであった[6]。これにより『レブド・アラキリ』はレイモン・マルスラン(フランス語版)内相から発禁処分を受けることになった。ただし、内相による発禁処分は翌11月17日で下されていることから、これ以前から審理が行われていたという見方が強い。実際、これ以前にド・ゴール夫人が「孫が『アラキリ』を読んで大笑いしているのを見てショックを受け」発禁を求めたが受理されなかったという経緯もあり[7]、当局が目を光らせていた[8]。また、全面的な発禁ではなく、「一般大衆の目に触れる場所に置くこと、未成年者に販売すること」[9]のみが禁止された。
風刺画家のフレッド。パリ生まれ。親はギリシャ移民。
『レブド・アラキリ』のメンバーらは新聞の発行を続けるために早くも1週間後には週刊新聞『シャルリー・エブド』を創刊した。実際、スクァール社は既に『シャルリー』という月刊漫画(バンド・デシネ)を刊行しており、ウォランスキが編集長を務めていた。シャルリー(英語のチャーリー)は『ピーナッツ』の登場人物である。メンバーらは「シャルリー(チャーリー)」という名前の「お人好しっぽくて、ちょっとずれていて、ほんのちょっと時代遅れな (débonnaire, légèrement décalé et un tout petit peu désuet)」感じが気に入ったとし、併せて(先に発禁処分を受けた経緯から)シャルル・ド・ゴールへの言及を含むものだと説明した[10][11][12]。