アラワルスの息子がアラーウッディーン(阿剌瓦丁)で、チンギス・カンの孫のクビライに仕え、1292年に102歳という異例の長寿で亡くなったという[4]。
アラーウッディーンの息子がシャムスッディーン(贍思丁)で、陳州ダルガチのウマル(烏馬児)、隆鎮衛都指揮使のブベク(不別)、監察御史のヒンドゥ(忻都)、拱衛直司都指揮使のアフマド(阿合馬)、成宗・武宗・仁宗の3代に仕えたハサン(阿散不別)という5人の息子がいた[5]。
ブベクの子のオトマン(斡都蛮)は天暦の内乱で活躍した将として著名である。1328年(致和元年/天順元年/天暦元年)7月にイェスン・テムル・カアンが上都で崩御すると、大都で3代前の皇帝クルク・カアン(武宗カイシャン)の遺児のトク・テムルを奉じるエル・テムルが挙兵し、これに対抗して上都のイェスン・テムル・カアンの旧臣たちは先帝の遺児のアリギバを擁立し、大都派(トク・テムル派)と上都派(アリギバ派)との間で内戦(天暦の内乱)が勃発した。オトマンはイェスン・テムル・カアンが崩御した時点では上都にいたが、上都派を見限って大都に遷りエル・テムルから裨将に任じられた。オトマンは緒戦で壮士100人を率いてメリク・テムルとトガチを陀羅台駅で破って捕虜にする功績を挙げ、賜衣1・禿禿馬失甲1・金束帯1、白金100両、鈔200錠を与えられた[6]。
同年9月には行院同僉とされ、10月には上都側最後の主力たるクラタイ(忽剌台)・マジャルカン(馬札罕)率いる軍団を盧溝橋に破り、紫荊関にまで追撃して多数の捕虜を得た。更に、アントン率いる軍1500名も投降させ、上述の功績と併せて上賞を受けた[7]。同月には斉王オルク・テムルの上都強襲によって大都派の勝利が確定し、以後オトマンは1329年(天暦2年)に枢僉院、1330年(天暦3年)に隆鎮衛都指揮使兼領拱衛司と栄達した[8]。