アルバート・ウッズ
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紋章官サー・ウィリアム・ウッズの息子に生まれる[1]。(父ウィリアムの遺言執行書によれば、ウッズは6人の子女のうち5番目の子、息子としては四男にあたる。なお父ウィリアムは、イングランド貴族筆頭・紋章院総裁の第11代ノーフォーク公爵チャールズ・ハワードの非嫡出子の噂があったという[2]。)
紋章院で父と働くようになり、1837年には臨時紋章官(フィッツアラン臨時紋章官補)を務める。翌年にはパーシヴァント(ポートカリス紋章官補)に任じられる。
1841年10月、ヘラルド(ただし、臨時紋章官:ノーフォーク臨時紋章官としての就任)に昇進した[3]。月が改まった11月9日、常設紋章官のランカスター紋章官に進んだ。11月24日、バス騎士団の紋章官(ブラン・クールシエ紋章官)も兼任することとなったが、1857年にブラン・クールシエ紋章官が廃止された際は、そのまま同騎士団の系譜担当官に横滑り就任した[2]。
1865年から1867年にかけて、デンマーク、ベルギー、オーストリアの各君主へのガーター勲章授与使節団に随行した[1]。
1869年、紋章官トップのガーター主席紋章官に就任した[1]。主席紋章官在任中、ヴィクトリア女王の国葬や、エドワード7世の即位式を指揮した[4]。(ただしウッズはすでに高齢だったため、国葬は部下のサー・ウィリアム・ウェルドン紋章官が、即位式はサー・ヘンリー・ファーナム・バーク紋章官が式典準備のほとんどを取り仕切った[1][2]。)
晩年のウッズはガーター主席紋章官からの引退を拒みつづけた。そのためウッズの死後に、主席紋章官やその他の紋章官の権限を一部移譲させた騎士団員栄典事務総局(騎士団員の登録や付随事務作業を行う部署)が新たに設けられた[2]。

