アルビン・エッガー=リエンツ
From Wikipedia, the free encyclopedia
チロル州のリエンツ近くのデルザッハ・シュトリバッハ(Dölsach-Stribach)で生まれた。父親は教会の画家ゲオルク・エッガーで[1]、成人になった後、父親の姓に出生地の名前を付けて活動した[1]。父親の下で美術を学び、その後ミュンヘン美術院で、フランツ・デフレガーに学んだ[2]。フランスのバルビゾン派の画家、ジャン=フランソワ・ミレーの作品から影響をうけた。
1899年に結婚し、ウィーンに移ったが、ウィーンの美術界とは距離があり、ウィーン美術アカデミーで教師になる運動もしたが選ばれることは無かった。1900年のパリ万国博覧会に参加し、銅メダルを受賞した。
1900年から1910年の間は、チロル、特にエッツ渓谷を頻繁に訪れ、風景画や田舎の人々を描いた。1909年にはウィーン分離派に加わり、フェルディナンド・ホドラーの影響を受けた。地味な色使いで力強い輪郭で描くスタイルの人物画を描いた[2]。
1911年にウィーンからインスブルック近郊のハル・イン・チロルに移り[1]、1911年から1912年の1年間はヴァイマルに新設されたザクセン公国立美術アカデミー(Großherzoglich-Sächsische Kunstschule Weimar)の教授を務めた[1]。オランダを訪れ、オランダ絵画の巨匠たちの作品を研究し、フェルディナンド・ホドラーの影響から離れた。
1913年9月に、家族とともに当時はオーストリア領で第一次世界大戦後にイタリア領となるボルツァーノ近くのサンタ・ジュスティーナ(St. Justina)に移った。
第一次世界大戦のが始まると1915年に兵役に召集されるが、すぐに前線勤務を免除された。1916年にはオーストリア南部戦線で民間人として戦争画を描いた。終戦後もイタリア領となった南チロルに残った。ローマやウィーンの展覧会に出展を続けた。
1926年にサンタ・ジュスティーナで亡くなった。
