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アルフォンス・ジュアン

フランスの陸軍軍人 From Wikipedia, the free encyclopedia

アルフォンス・ピエール・ジュアンAlphonse Pierre Juin,1888年12月16日-1967年1月27日)は、フランス陸軍軍人。最終階級は陸軍大将第一次世界大戦ではモロッコで現地部隊の指揮を執った。第二次世界大戦でドイツ軍に捕らえられて1941年まで捕虜となり、釈放後は北アフリカのフランス軍の指揮官に任命された。戦後はフランス保護領モロッコの統監を務め、同地の独立に強く反対した。その後北大西洋条約機構ブルンスム統連合軍司令部司令官に任命され、在任中にフランス元帥に昇進した。

概要 アルフォンス・ピエール・ジュアンAlphonse Pierre Juin, 生誕 ...
アルフォンス・ピエール・ジュアン
Alphonse Pierre Juin
1952年9月撮影
生誕 1888年12月16日
フランス領アルジェリアアンナバ
死没 1967年1月27日(享年78歳)
フランスの旗 フランスパリ
所属組織 フランス陸軍
軍歴 1912-1962
最終階級 陸軍将軍
出身校 エコール・ミリテール
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生い立ち

アルフォンス・ジュアンは1888年12月16日、フランス領アルジェリアのボーヌ(現在のアンナバ)で、ヴィクトル・ピエール・ジュアンとプレシューズ・サリニの間に生まれた[1]。父は15年間軍務に就き、アルジェリアで憲兵となった。母は同じく憲兵となった軍人の娘だった。ジュアンの名前は父方の祖父にちなんで名付けられた。6歳のとき、家族はコンスタンティーヌに移り住み、そこで小学校に通い、地元の少年たちからアラビア語を学んだ。

1909年、彼はサン・シール陸軍士官学校の入学試験に合格した。当時、士官候補生は課程開始前に1年間陸軍に所属することが義務づけられていたため、彼はアルジェリアの第1ズアーブ兵連隊に入隊し、すぐに伍長、そして軍曹へと昇進した。彼は1910年に士官学校に入学した[2]。クラスには名前がついており、彼のクラスである94期生は1911年の第二次モロッコ事件の中心地であったモロッコの都市フェズにちなんで、プロモート・ド・フェズと呼ばれた。中国、トルコ、イラン、アルジェリアからの外国人8人を含む223人のクラスには、後の陸軍大将であるアントワーヌ・ベトゥアール(英語版)や、後の大統領であるシャルル・ド・ゴールがいた。クラスのメンバーの間には特別な絆が生まれ、ド・ゴールはジュアンに対して親しい間柄で使われる二人称代名詞tuを常に用いて話しかけていた[3]

ジュアンは1912年10月1日に士官学校を卒業し、アルジェリア連隊、第一アルジェリア軽歩兵連隊の少尉に任官した。彼はすぐにモロッコのザイアン戦争(英語版)に従軍し、タザ(英語版)周辺の戦闘に参加した[2][4]

第一次世界大戦

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、モロッコ人部隊から5個大隊からなる先住民猟兵部隊が編成され、西部戦線に派遣された。ジュアンは中尉としてジョゼフ=フランソワ・ポイミロー(英語版)大隊長の先住民猟兵第2連隊に参加した[5]。9月5日、彼の部隊はマルヌ会戦の戦闘に参加した。ジュアンは翌日左手に怪我を負ったが、病院への後送を拒否し、腕を吊ったまま前線にとどまった。これにより、彼はレジオンドヌール勲章を授与された。部隊は1915年1月に前線から撤退したが、3月に第一次シャンパーニュ会戦(英語版)で再び戦闘に参加した。この戦いでジュアンは再び負傷し、今度は右上腕を負傷した。この怪我は永久的なもので、彼は今後左手で敬礼することを許可された[2]

ジュアンは後送された病院で、同じく負傷していたポイミロー大隊長と再会した。ポイミローは1915年12月にジュアンを療養のためモロッコに送還する手配をした。大尉に昇進したジュアンはフランスへ向かう準備をしていたモロッコの部隊に加わったが、フランス領モロッコ統監であるユベール・リヨテ(フランス語版)の副官を6か月間務めるという申し出を受け、モロッコに残った。

ジュアンは1916年末に第1モロッコ歩兵連隊の1個中隊長としてフランスに戻り、1917年4月のニヴェル攻勢に参加した[4]。1918年10月に帰国した際、彼は当初は所属する師団の参謀に配属されたが、その後アメリカ陸軍駐在フランス使節団に加わり、1918年11月に戦闘が集結するまでそこで勤務した[2]

戦間期

戦後、ジュアンは第1モロッコ軽歩兵連隊に戻ったが、リヨテの参謀部に派遣され、その後参謀としての訓練をさらに受けるため陸軍大学校に送られた。1921年に卒業後、チュニジアの師団司令部に配属された。彼はパリでの参謀職の申し出を断り、モロッコでポイミローの下で勤務したが、ポイミローは1924年に急死した。リヨテはモロッコを二つの司令部に分割した。ジュアンがフェズの新しい司令部に到着すると、彼が期待していたG-3(作戦)のポストにはジャン・ド・ラトル・ド・タシニ大尉が就いていた。ジュアンは参謀としての訓練を受けていたが、ド・ラトルは受けていなかったため、ジュアンはG-4(兵站)のポストに就いた。彼の主な任務はウエルガ川(英語版)流域の要塞への物資補給だった。第3次リーフ戦争の間、彼はシャルル・ノゲス(英語版)大佐の幕僚を務めた。戦場で部隊を率いた功績により、ジュアンはレジオンドヌール勲章のオフィシエに叙せられ、大隊長に昇進した[2]

リヨテは戦争準備不足の責任を問われ、指揮権を解かれた。元帥として、リヨテは最高戦争評議会(英語版)のメンバーであったため、3人の将校からなる少数のスタッフを持つ権利があった。彼はジュアンに評議会の長になるよう頼んだ。ジュアンは自身の影響力がほとんどないパリでの事務職であるにもかかわらず、それを受け入れた。彼はフィリップ・ペタン元帥が出席していたために、めったに開かれない評議会の会合にさえ出席することを拒否した。1927年3月、ジュアンはド・ラトルとシモンヌ・カラリー・ド・ラマジエールとの結婚式で介添人を務めた[2]

第二次世界大戦

フランスの陥落

1939年9月に第二次世界大戦が勃発した後、ジュアンはフランス本土防衛のためにアフリカの軍から部隊を派遣する手配に協力した。12月4日、彼は第15自動車化歩兵師団(15e DIM)の指揮官に任命された。1940年5月10日にフランス本土侵攻が始まると15e DIMはベルギーに派遣され、ジャンブルー周辺地域の防衛を命じられた。この地域は5月14日から15日にかけてドイツ軍の攻撃に耐えたが、防衛部隊はヴァランシエンヌへの撤退を余儀なくされた。15e DIMは5月24日にドイツ軍の激しい攻撃を受けてリールポケット(英語版)まで撤退し、ダンケルクの戦いでイギリス軍とフランス軍を援護した。15e DIMの一部の部隊はダンケルクへの脱出に成功したが、残りの部隊は弾薬が尽きるまで戦った。ジュアンは5月29日に降伏した[2]

ジュアンは捕虜となり、ザクセンにあるケーニヒシュタイン要塞にある将校収容所に収容された。彼は収容中に師団将軍に昇進した。1941年6月、ヴィシー政権の首班となったペタン元帥の要請により、ジュアンは北アフリカの専門家としてドイツ人水兵30名との交換で釈放された。7月16日には軍団将軍に昇進し、モロッコ駐留軍の司令官となった。1941年11月にシャルル・アンツィジェール陸軍大将が航空機事故で殉職すると、フランソワ・ダルラン提督はジュアンに陸軍大臣のポストを提示したが、ジュアンは北アフリカでの勤務のみを希望するとしてこれを断った。11月20日、彼は陸軍大将に昇進し、マキシム・ウェイガンに代わって北アフリカのフランス陸軍司令官に就任した。12月、彼はドイツへのフランス使節団を率いてヘルマン・ゲーリング国家元帥と会談し、クルセーダー作戦によってドイツ・イタリアの軍がリビアから駆逐された場合について話し合った。結果としてそのような事態は避けられたが、このことに対する意見の相違からジュアンとド・ラトルの間には亀裂が生じた。ジュアンはド・ラトルをチュニジア駐留軍の指揮官から解任し、彼らの友情は完全に失われた[2]

北アフリカ戦線

連合国軍によるアルジェリアとモロッコに対する上陸作戦であるトーチ作戦は、作戦の秘密協議に関わっていなかったジュアンにとって寝耳に水だった。彼は1942年11月8日の朝、上陸部隊の第一陣が海岸へ向かっている最中に、アルジェ駐在のアメリカ総領事ロバート・ダニエル・マーフィーから上陸の知らせを受けた。ジュアンは以前、連合国軍の北アフリカの侵攻に抵抗するよう命令を受けていることをマーフィーに伝えていたが、マーフィーから上陸の知らせを受けたジュアンはダルラン提督と協議することに同意した。ダルランはすぐにジュアンの別荘に到着し、その後ペタン元帥に電報を送ることで本国の判断を仰いだ。結局、この時ジュアンは連合国側に寝返らなかった。マーフィーはジュアンの別荘で軟禁され、別荘を包囲していた親連合国派の部隊は追い払われ、連合国に協力していたシャルル・マスト(英語版)師団長はルイ・ケルツ(英語版)師団長に交代した[6]

アメリカ軍のジェフリー・キーズ少将(左)とイギリス軍のA・L・コリアー少将(中央)、そしてジュアン。ジュアンは左手で敬礼している。

しかし、同日午後7時にダルランはアメリカ軍との停戦協定を結び、ジュアンもそれに従った。ジュアンはアルジェリアがアメリカ軍に占領されるのを望んでいなかったが、彼は現実の状況をよく理解していた[2]。ダルランはジュアンにアルジェでの局地的な停戦交渉を許可したため、ジュアンはアメリカ第34歩兵師団の司令官であるチャールズ・W・ライダー(英語版)少将と会談し、両者は戦闘の終結を取り決めた。アルジェはアメリカ軍に引き渡され、フランス軍は兵舎に閉じ込められたものの武器は保持し、フランス警察は引き続き治安維持に努めた[6]。北アフリカのほかの地域ではフランス軍が連合国軍に対する抵抗を続けていたが、11月10日にダルランが停戦を発令し、ジュアン率いるチュニジアのフランス軍に対して枢軸国軍に抵抗するよう命令すると連合側への抵抗は落ち着いた。ジュアンの命令は必ずしも順守されたわけではなく、多くの部下はダルランとジュアンがアメリカ軍に捕らわれていると信じていた[6]が、ジュアンは個人的にノゲスを説得して連合国と協力させることに成功した[2]

11月13日、北アフリカにおけるフランス軍の再編成が行われ、ジュアンはアフリカにおける東部戦線の司令官となった[6]。フランス軍分遣隊(Détachement d'armée Français)として知られる彼の部隊はチュニジアにおいて異なる二つの戦線を担当し、北部はフェルナン・バレ准将が担当し、南部はケルツが指揮していた[6]。ジュアン配下の部隊は全体的に装備が貧弱であり、枢軸国軍の反撃を受けた際はアメリカ軍とイギリス軍の支援を要請しなければならなかった。1943年1月、ジュアンは指揮体制の変更に同意し、フランス軍はケルツの第19軍団に集中し、同軍団はイギリス軍のケネス・アンダーソン(英語版)中将率いるイギリス第1軍の指揮下に入った[6]

ジュアンは陸軍大将に昇進した[2]。5月に連合国軍がチュニスを占領した後、チュニスに入った彼は民衆から熱烈な歓迎を受けた[6]シャルル・ド・ゴール将軍はマストをチュニジア駐在総督に任命したが、マストが飛行機事故で負傷したため、ジュアンが代役を務めることになった[2]。ジュアンはドワイト・D・アイゼンハワー将軍、アンリ・ジロー陸軍大将、アンドルー・カニンガム海軍大将、アーサー・テッダー空軍元帥、ケネス・アンダーソン陸軍中将とともに、5月20日の勝利パレードの観閲台に立った[6]。ジュアンにとって愉快でなかった仕事の一つは、チュニジアのベイであるムハンマド6世アル・ムンシフ(英語版)に対して彼が廃位されることを告げることだった。ペタンがムハンマド6世のフランス国籍とレジオンドヌール勲章を剝奪した際、ムハンマド6世は「自身が死刑判決を受けなかったことに感謝している」と述べた[2]

イタリア戦線

クラーク中将とジュアン将軍。1944年7月、イタリアのシエーナにて。

1943年7月、地中海作戦戦域(MTO)の総司令官となったアイゼンハワーは、来たるべきイタリア戦線での戦闘にフランス軍が投入される可能性をジュアンに説明した。ジュアンはワシントンD.C.にいたジロー大将に代わってこれを受け入れた[7]。ジュアンは、最終的に軍司令部に発展することを意図したA軍部隊(Détachement d'armée A)として知られる部隊の指揮を任された。この部隊は、ジュアンより階級が低いアメリカ軍のマーク・W・クラーク中将指揮下のアメリカ第5軍の一部となるため、ジュアンは自身の部隊をフランス遠征軍(英語版)Corps Expéditionnaire Français、CEF)と改称し、自身の階級を軍団将軍に降格した。CEFの最初の師団である第2モロッコ歩兵師団(2e DIM)が1943年11月に到着すると、当初はアメリカ軍のジョン・P・ルーカス(英語版)少将の第6軍団(英語版)の指揮下に置かれた。ルーカスは自身の日記の中で、ジュアンは「素晴らしい兵士であるだけでなく、立派で礼儀正しい紳士でもあった」と記している[8]

12月にCEFの第2師団である第3アルジェリア歩兵師団(3e DIA)が到着すると、ジュアンのCEFは戦線でルーカスの第6軍団と交代した[8]。CEFにとってモンテ・カッシーノの戦いは1944年1月12日に始まり、CEFは4マイル前進してドイツ軍の主要防衛線であるグスタフ・ラインに到達した[8]。1944年1月22日のアンツィオの戦いの後、ジュアンはモンテ・カッシーノから約5マイル北にあるモンテ・ベルヴェルデーレへの攻撃を開始した[8]。1月29日、ジュアンはクラークに「信じられないほどの努力と大きな損失を犠牲にして」、第3アルジェリア歩兵師団が「あなたが与えた任務を達成した」と報告した[8]

連合国軍によるグスタフ・ライン突破の試みが三度にわたって失敗した後、イギリス軍のハロルド・アレグザンダー将軍はダイアデム作戦の実施を決定した。イギリスの慣例に従い、アレグザンダーは部下に対し命令の遂行に関してかなりの裁量を与えた[9]。これによりジュアンは計画の大幅な変更を提案することができた。彼は、4個師団に増強されたCEFが険しいアウルンチ山脈(英語版)を突破してドイツ軍を側面から攻撃することを提案した。彼は山道での突破はおろか、前進すること自体が困難であることをわかっていたが、モロッコ第4山岳師団とモロッコのグミエならそれが可能であると信じていた[9]

モロッコのグミエ

クラークによれば

一方、フランス軍はガリリャーノ川を渡り、リリ川(英語版)の南に広がる山岳地帯へと進軍した。それは容易なことではなかった。いつものように、ドイツ軍のベテラン兵士たちは激しく抵抗し、激しい戦闘が繰り広げられた。フランス軍は敵を奇襲し、ファイト・チェラソラ山やカステルフォルテ近郊の高地など、要衝を迅速に占領した。第1自動車化師団は第2モロッコ師団を支援して要衝のジロファーノ山を占領し、その後北へ進軍してサン・アポリナーレとサン・アンブロージョに至った。敵の抵抗が強まる中、第2モロッコ師団は2日足らずの戦闘でグスタフ・ラインを突破した。

フランス軍の戦線における次の48時間は決定的なものとなった。ナイフを振り回すグミエ兵は、特に夜間に丘陵地帯に殺到し、ジュアン将軍率いる全軍はドイツ軍が耐えられないほどの攻撃性を時間ごとに示した。チェラソラ、サン・ジョリオ、モン・ドーロ、アウゾーニアエスペーリアは、イタリア戦線におけるもっとも華々しく大胆な進撃によって占領され、5月16日までにフランス遠征軍は左翼を約10マイル前進してモン・レヴォールに到達し、残りの戦線はイギリス第8軍との連絡を維持するためにやや後退した。

入念な準備と並々ならぬ決意があってこそ、この攻撃が可能になったわけだが、ジュアンはまさにそういうタイプの戦士だった。難攻不落の山脈を突破するには、ラバの隊列、熟練の山岳戦士、そして険しい地形を夜間に長距離行軍できる体力を持った兵士が必要だった。フランス軍は、アルベルト・ケッセルリンクの参謀長であるジークフリート・ヴェストファル(英語版)中将が後にタイミングと攻撃性の両面で大きな驚きだったと評した驚異的な進撃において、その能力を発揮した。ローマへの進撃全体の成功の鍵となったこの功績に対し、私はジュアン将軍と彼の素晴らしいフランス遠征軍に常に感謝の念を抱き続けるだろう。[10]

クラークはローマに凱旋し、ジュアンは彼の隣に座った。ジュアンにとっては、この経験はほろ苦いものであった。彼は、イギリスの慎重さとアメリカのローマ占領への執着によって勝利の果実が失われたと感じていた。連合国軍が勝利しつつある今、フランス軍司令部はイタリアでの作戦継続を支持するジュアンの主張を却下した。7月4日、CEFはシエーナを占領し、そこでパリ祭を祝った後、連合国軍による南フランス侵攻作戦であるドラグーン作戦に参加するために撤退した。イタリアではモロッコ人部隊による「マロッキナーテ(イタリア語で『モロッコ人の行い』を意味する)」と呼ばれる強姦や略奪が問題となっており、ジュアンはそれらを防止するために死刑を含む措置を講じたが、これはフランス人とイタリア人の間にある敵意のためにあまり効果を発揮しなかった[11]

参謀長

この任務の後、ジュアンはフランス軍参謀長(Chef d'État-Major de la Défense Nationale)に任命された。彼はアイゼンハワーを説得してフィリップ・ルクレールの第2機甲師団によるパリ解放作戦を許可させ、1944年8月25日にド・ゴール将軍とともにパリに入城し、解放された地域の秩序回復に努めた。彼は北アフリカから連れてきたスパヒ(英語版)部隊を率いて、解散を拒否したフランス国内軍(FFI)の残党を鎮圧した。彼はアイゼンハワーと交渉し、FFIの人員を大西洋沿岸の迂回された駐屯地に残るドイツ軍とイタリアとの国境を守る4つの新師団に編入させた[2]

1945年1月のドイツ軍によるノルトヴィント作戦の間、ジュアンは連合国軍のアルザス・ロレーヌからの撤退案を巡ってアイゼンハワーの参謀長ウォルター・B・スミス中将と対立した。結局、アイゼンハワーはイギリスとフランスからの政治的圧力に屈し、撤退は実行されなかった。ジュアンはまた、1945年4月のロワイヤン包囲網(英語版)への攻撃にも反対したが、彼の反対を押し切って計画は実行された[2]

戦後

アルフォンス・ジュアン元帥。1962年3月26日撮影。

欧州戦線が終結したとき、ジュアンはアメリカに滞在しており、サンフランシスコ会議でフランス代表を務めていた[2]。戦後間もない時期には、フランス軍の再建という任務を継続した。しかし、アメリカによるレンドリースの終了、連合国軍によるドイツ占領、北アフリカ、シリア、イタリアへの軍事的関与によってこの任務は困難を極めた。イタリアでは、1947年のパリ講和条約によって国境が一部変更され、アルプス国境地域の一部がフランス領となった。差し迫った最大の危機はインドシナ戦争であった。1946年にド・ゴールが大統領を退任すると、ジュアンは大統領への直接のアクセスを失い、フランスの任務を遂行できる規模の軍隊を編成するという彼の計画は縮小せざるを得なくなった[2]

1947年5月、ジュアンはモロッコ駐在総督として北アフリカに戻った[12]。彼はモロッコ独立の試みに反対し、モロッコ王ムハンマド5世とはぎこちない関係にあった。ジュアンはムハンマド5世の民族主義的傾向を正しく見抜いていた。ジュアンは民族主義者に乗っ取られつつあると考えていた宗教学校や特定の集会を禁止した[2]。1949年3月7日、イスラエル・ユダヤ機関(英語版)との合意により、モロッコのユダヤ人がイスラエルに移住するのを促進するシオニスト組織が設立された[13][14]。ジュアンは在任中、多くの行政改革を実施してモロッコ人の権利を大幅に拡大したが、独立への動きが強まるにつれて、その功績は影を潜めた[2]。1951年8月、ギヨーム将軍が彼の後任となった[15]

ジュアンは1946年4月にインドシナを訪問し、ホー・チ・ミンと会談したが、ジュアンは同地での指揮に興味を示さなかった[2]。同様に、1948年には西欧同盟陸軍の指揮官の申し出も断った[2]。1950年10月、インドシナにおけるフランスの取り組みの状況を報告するために派遣された際、彼は採用されている戦略と戦術の両方を批判する厳しい報告書を作成した。しかし、彼は北アフリカの状況をより懸念していたため、インドシナのフランス軍指揮官の申し出を再び断った[2]

1952年11月20日、ジュアンはアカデミー・フランセーズの第4席に選出された[16]

1953年、ジュアンはブルンスム統連合軍司令部の司令官に就任し、北大西洋条約機構の要職に就いた[17]。彼は再びアイゼンハワーの下で働くことになった。また、イタリア戦役で知り合ったアイゼンハワーの後任であるマシュー・リッジウェイ将軍とアルフレッド・グリュンサー(英語版)将軍とも良好な関係を築いた。NATO司令官在任中の1952年5月、ジュアンはフランス元帥に叙せられた。同年にド・ラトルとルクレールも元帥となったが、二人は死後追号であったため、ジュアンが唯一存命中の元帥となった。1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北した後、ジュアンは再びインドシナの司令官に就任するよう要請された。彼はかつての側近が戦死したこの戦いに深く心を動かされたが、結局再びその職を辞退した[2]。彼はほかのアメリカ人の下で勤務することを望まなかったため、グリュンサーの退役と同時に1956年10月1日に退役した。

アルジェリア戦争において、ジュアンはアルジェリア独立を認めるド・ゴールの決定に強く反対したが、ド・ゴールへの忠誠は揺るぎなかった。1961年の将軍達の反乱秘密軍事組織によるテロ活動の後、彼は自宅軟禁下に置かれた。彼は「引退」させられ、元帥としての特権も剥奪された。1963年12月、彼は血栓症を患い入院し、そこでド・ゴールの訪問を受けた[2]。錯乱状態のジュアンは「コンスタンティーヌ、アルジェリア、私の祖国」と語り、ド・ゴールは彼を抱きしめ、「ああ、わかっている、君の祖国はそこにある」と答えた[2]

結局、ジュアンは死ななかったものの、その後も生涯虚弱なままだった。1966年11月に心臓発作を起こして再び病院に運ばれ、1967年1月27日に亡くなった。葬儀はノートルダム大聖堂で行われ、アレグザンダー、リッジウェイ、ベトゥアール、マルセル・カルパンティエ(英語版)、ド・ゴールなどの旧友が参列した。その後、ジュアンは軍葬の礼をもってオテル・デ・ザンヴァリッドに埋葬された[2][18]

脚注

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