アルフレード・バレンスエラ・プエルマ
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チリ中部のバルパライソでサンティアゴ出身の両親のもとで生まれた。幼い頃から美術への才能と関心を示し[4]、12歳の時にサンティアゴの美術学校に入学し、エルンスト・キルヒバッハやフアン・モーキに学んだ。
1881年からチリ政府から奨学金を得て、1885年までパリに留学し、アカデミック美術、オリエンタリズムの画家、ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンの工房で指導を受け、ソルボンヌ大学で解剖学を学んだ。ルーヴル美術館でスペインの巨匠たちの作品を模写することでその影響を受けた。留学の条件として毎年1点の作品をチリ政府に提出することになっていて、1882年にはジュール・ブルトンの模写作品を提出し、1883年には現在も人気のある風俗画の『地理学の授業(La Lección de Geografía)』を提出した。
パリのサロンで裸婦を描いた『水辺のナイアス(Náyade cerca del agua)』という作品を出展し好評であったことから、1884年に奴隷市場に並ぶ裸婦を描いた『奴隷商人の真珠(La perla del mercader)』という作品を、チリで発表し、その題材はチリでは様々な批判を招くことになった。
1887年に2度目の奨学金を得てパリに移り、今度はジャン=ポール・ローランスのアトリエで学ぶがローランスとは喧嘩をしてアトリエを去った。1889年にパリのサロンに『桜のニンフ(Ninfa de las Cerezas)』というヌード作品を出展し特別賞を受賞した。
チリに帰国すると1890年代はバルパライソで活動し、バルパライソの劇場(Théâtre La Victoria)の監督としても働いた。軍人で美術収集家のマルコス・マトゥラナ(Marcos Segundo Maturana)に因んで創設された賞(Premio General Maturana)を1892年に受賞した。その後も肖像画や風景画、ヌードを描いた。
1907年に最終的にフランスに移り、慢性的なうつ病と精神疾患に苦しみ、ヴァル=ド=マルヌ県のヴィルジュイフ (Villejuif)の精神病院で53歳で亡くなった。葬儀がフランスで行われた後、遺体はチリに帰国し、チリ国立美術館で式典が行われた[5]。
美術学校の正式な教師をすることは無かったが、アルフレド・ヘルスビーやエウカルピオ・エスピノサ(Eucarpio Espinosa: 1867-1934)らが弟子とされる[6]。
