アルンブラドス
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アルンブラドス(派)(スペイン語: Alumbrados、発音: [alumˈbɾaðos]、スペイン語で「光に照らされた者達」の意味)は、15世紀末から16世紀にかけてカスティーリャ王国で活動した神秘主義的なキリスト教グループで、イルミニズム(イルミナティの別称)の一形態とされる。
グノーシス主義の影響を受け、魂の神との直接合一を主張したが、スペイン異端審問所により異端視され、プロテスタンティズムやルテラニズムと関連づけられて迫害された。
組織は統一されておらず、小さな集会形式で、貴族の保護下でグアダラハラやエスカロナなどで活動。
名称は1492年頃に「aluminados」として登場し、1498年までに「Alumbrados」として定着した。
フランシスコ会の影響が強く、「recogimiento」(魂の内省的合一)の過激版「dejamiento」(神への完全放棄)を提唱。教会の外部崇拝や秘跡を否定する点で、静寂主義や後の薔薇十字団に影響を与えたとされる。
アルンブラドスの起源は、グノーシス主義のイタリア経由の影響に遡り、1492年頃に「aluminados」として記録され、1498年までに「Alumbrados」として登場。1511年頃にカスティーリャ中央部の小さな都市(例: サラマンカ、エスカロナ、パストラナ、グアダラハラ)で本格化し、フランシスコ会の改革派が推進した「recogimiento」の過激版「dejamiento」が基盤となった。信奉者は中産階級やコンベルソ(ユダヤ改宗者)、モリスコ(ムスリム改宗者)が多く、血の純粋性差別(Limpieza de sangre)の時代に差別を受けやすい立場にあった。
1511年、ピエドラヒタのベアタ(マリア・デ・サント・ドミンゴ)がイエスや聖母マリアとの対話を主張し、異端審問所の注目を集めたが、影響力ある後援で厳しい処罰を免れた。これをアルンブラドスの先駆けとする見方もあるが、関連性は曖昧。1517-1524年頃、イサベル・デ・ラ・クルス(グアダラハラ)、ペドロ・ルイス・デ・アルカラス(エスカロナ)、ガスパル・ベドヤ(パストラナ)らが核を形成。インファンタード公爵やビリェナ侯爵の保護下で集会し、福音書の自由解釈や精神的な祈りを重視した。
1525年、総異端審問官アロンソ・マンリケ・デ・ララ(エラスムス主義者)が「アルンブラドスに関する勅令」を公布し、48の異端的主張を列挙して異端宣言。プロテスタンティズムとの関連を強調した。以降、1530年頃からエラスムス主義者(フアン・デ・バルデス、ジャン・ダヴィラなど)が巻き込まれ、1568年、1574年、1623年の追加勅令で抑圧が続く。1623年のセビリア恩赦勅令では76の誤りを列挙し、告発を促した。
16世紀後半には、エストレマドゥーラ(1570-1582)、グラナダ上部(1575-1590)、セビリア(1605-1630)で新たなグループが形成。1585年のルセナ報告では、告白なしの聖餐受容を主張した事例が記される。17世紀初頭のエストレマドゥーラ事例(エルナンド・アルバレス、クリストバル・チャミソ)では、性的放蕩やメシアの処女懐胎主張が告発された。
信念と教義
アルンブラドスは、魂が現世で神の本質を観想し、三位一体を理解する完全性に達すると信じ、聖霊を通じた直接接触を幻視やエクスタシーで主張。神の愛による動機付けで独自の意志を放棄(dejamiento)し、罪を犯せない状態になるとした。教会の権威、階層、伝統的敬虔(信心業、慈悲の業、秘跡、告解、修道制、地獄の存在)を束縛と拒否し、内省的祈りを優先。福音書の自由解釈を提唱し、神の恵みへの完全放棄で精神的刷新を達成するとした。
1525年の勅令で列挙された48の異端的主張例(以下、資料不足のため、不完全な要約)
- 地獄など存在しない。もしあると言うなら、それは子供を脅すための化け物の話と同じだ。(異端で誤り、神の正義の秩序に反する。)
- 父も子のように肉体となった。『わたしを見る者は...』(Qui videt me)の権威を主張して。(異端。)
- 神は人をこれ以上完璧にしたり謙虚にしたりできない。(異端で、神の全能性を否定。)
- 人がすべきことをすれば、神は聖体よりも完全に人の魂に入る。聖体は小さな生地の欠片だが、人は神の像に造られているからだ。(誤りで偽り、異端。聖体の仮定的合一を否定。)
- 聖体の奉献の言葉を口で発しなくても、心の中で発すれば十分だ。(偽りで誤り。)
- もっと罪を犯さなかったことを後悔する。神の慈悲を知り、もっと罪を犯してその慈悲を楽しめばよかった。罪が大きいほど、神は人を愛するからだ。(道徳的に異端、罪を誘発し悔い改めに反する。)
- 罪を嘆く人を「悔い改めの依存者」「自己所有者」「泣き虫」と呼ぶ。(狂気的で、悔い改めの秘跡を侮蔑。)
- 告解は神の法ではなく、人為的な法である。(ルター的で、異端の味。)
- 神の愛は神そのもの。神の愛に身を委ねれば、致命罪や軽罪を犯せない。軽罪などない。軽い罪のように見えても、過ちのない過ちだ。この状態に達すれば、功徳を積む必要はない。(最初の部分は教会博士の共通意見に反する偽り。二番目は誤りで異端、三番目は誤りで異端、四番目は教会により非難された誤り。)
- 神に身を委ねた人は、神や他人に魂を説明する必要がない。何もせず、神に任せよ。業を望むだけで、この愛の業ができなくなる。神への放棄状態では、祈りや内省、祈りの場所など必要ない。(自由意志からの行為をすべて致命罪と前提し、異端で冒涜。)
- 神に委ねれば、それだけで魂は救われ、断食や慈悲の業は不要。神に委ねた者が罪を犯しても魂を失わず、神に説明する必要もない。この真理のために死ねば神は喜ぶ。(偽りで異端、慈悲を怠惰にし聖書に反する。)
- 神に委ねた人は、神の望みを阻まぬよう働かず、被造物から離れる。キリストの人性を瞑想するのも神への放棄を妨げる。良い思いも拒否し、神だけを見る。それを美徳とし、静寂状態で神を思い出すのも誘惑だ。(偽りで誤り、醜悪で異端。)
- 祈りの外部行為は無意味で不必要、行うのは不完全。イエスの名で謙虚にせず、心に謙虚を。十字前に跪く人を叱責。ミサを好む者はミサをせず、祈りを好む者は祈りを捨て、供え物を好む者は供え物をせず。聖体が通り過ぎても立たず、頭を垂れるのも救いを自己所有しようとするものだ。(誤りで冒涜、異端。教会の聖なる習慣から人を遠ざける。)
- 福音朗読で立つなどの謙虚のしるしは、教会で体を遊ばせるだけだ。(誤りで、聖典に反する。)
- 聖母の像を飾り、街頭行列するのは悪で偶像崇拝。あの偶像を除け。(軽率で、教会の称賛すべき習慣に誤り。)
- 主と聖母の像を崇敬しても癒されない。あれはただの棒だ。人々が崇敬すると笑い、棒は気づかないと言う。(異端で、かつて教会により非難された。)
- 聖母の像がない理由を問われ、女を見て聖母を思い出すと言う。(狂気で誤り、異端の起源。聖人の像を崇敬する必要がないと前提。)
- 説教中、十字架は木片なので崇敬せず、十字架上のキリストを崇敬せよと言う。(異教的で異端、残酷。)
- 神の愛に身を委ね祈りを捨てよ。祈りは何のためか。人の心は自分の手のように見える。聖水は何のためか。胸を打つのは?受肉の言葉で地を吻すのは?自己意志と世俗の枷だ。聖体を見るために動く人を叱責。教会に入り十字や聖水で癒されず、心に神を留めよ。(異端の味がし、誤りで醜悪。教会の聖なる儀式を破壊し、忠実なキリスト教徒を異教徒と区別する外部行為を否定。)
- 祈りは精神的なもので口頭ではない。教会で祈るのは世俗の枷。口頭祈りは神に仕えず、口で祈る必要はない。(誤りで異端。)
- 神に特定のものを求めず、「神に祈ってくれ」と言うのは適切。神は皆を世話する。告解者が具体的に祈るのが良いと言うと、具体的にしない方が良いと言う。(最初の部分は誤りで異端、キリストと教会の教えに反する。二番目は狂気的。)
- 特定の祈りを好むのは良くない。感情で依存し、悪を生む。キリストの受難を思い慰めを得るのは欠陥。受難の像で泣く女に苛立つ。受難で泣く使用人を鞭打つ。聖木曜日は復活祭のように喜び。(最初の二部分は異端。好金曜日に受難で泣かず笑うのは狂気的、醜悪、大胆で教会の習慣に反する。)
- 司祭はミサの犠牲で何も求めず、神の愛に懸垂すべき。(誤りで、ミサの聖典に反する。)
- 説教者が聖人に祈り像を崇敬する人を叱責。十字架は燃やせる木片なのに崇敬か?(すべての部分で異端、狂気的、醜悪。)
- 夫婦は祈るより愛し合う方が神に合一する。(偽りで誤り、異端の味がし、異端と判断。パウロに反し、教会の霊的助言に反する。)
- 聖人が言うような賜物を持っている。聖人の教えを振り払い、「聖人の教えか!聖書に従って判断し行動する。」神が聖人に与えた洞察について、「魂の奇跡は何の役に立つ?」教会の聖典は善いが、望む者が守ればよい。主の法を守りたい。学者に従わず、学者は神の愛を説かず、神の言葉だけを説く。(異教的、異端、ルター的誤り。聖人の教えを拒否するのはルター的狂気で傲慢な誤り。聖典の遵守を否定するのは異端で不敬、ルター的誤り。)
- 聖人の仲介を否定。(異端。)
- 秘跡の無用を主張。(誤りで異端。)
- 外部崇拝の拒否。(狂気的で教会の習慣に反する。)
- 罪の不可能を主張。(異端の味。)
- 魂の慰めのために本を読むのは重罪。(狂気で誤り、異端。)
- 神を通さずに人を愛するのは重罪。(誤りで偽り。)
- 外部祈祷の無益を主張: 口頭祈りは神に仕えず、精神的な静寂だけで十分。教会の儀式は枷で、拒否するのが美徳。(誤りで異端。教会の聖なる習慣を破壊し、忠実な信者を異教徒と区別する外部行為を否定。)
- 聖像崇敬の拒否: 聖人の像は偶像で崇敬せず、女性を見て聖母を思い浮かべるだけでよい。(狂気的で誤り、異端の起源。聖人の像崇敬の必要性を前提否定。)
- 慈悲の業の不要: 神に委ねた者は断食や慈善をせず、神の恵みに任せるだけで救われる。(偽りで異端、慈悲を怠惰にし聖書に反する。)
- 神を通さない愛の罪: 息子、娘、その他の人を神を通さずに愛するたびに重罪を犯す。(誤りで偽り、聖人の一般的な教えに反する。)
- 慈善行為の偽りを主張: 慈善の業は自己利益のためで、神の愛のためではない。外部の業を軽視。(狂気的で偽り、誤りで自己矛盾。)
- 罪の超越: 合一状態では性的欲求や他の「罪」も魂を汚さない。神との合一で罪を犯せない。(異端の味がし、教会の教義に反する。)
- 終末予言: 世界の終わりは12年後で、完璧な者はその前に神の王国に入る。(狂気的で大胆、教会の預言禁止に反する。)
- 意志の行動の罪: 自分の意志で行動する(例: 道を渡る)のは罪で、神の指示だけに従う。(異端の基礎で、私たちの意志から生じるすべての行動が罪であると示唆。)
- 秘跡の否定: 洗礼や聖餐などの秘跡は不要。神の直接恵みで十分。(ルター的誤りで異端、教会の秘跡体系を破壊。)
- キリストの仲介否定: 神と自分の間に仲介者を置かず、キリストの人性を瞑想せず、神の贈り物に集中せよ。(誤りで異端、キリストの肉体化と贖いの仲介を否定。受難の瞑想を軽視し、教会の習慣に反する。)
- 聖人の教えの拒否: 聖人の教えを振り払い、聖書だけに従う。学者は神の愛を説かず、神の言葉だけを説く。(異教的で異端、ルター的誤り。聖人の教え拒否は傲慢な狂気。)
- 受難の瞑想の欠陥: キリストの受難を思い慰めを得るのは欠陥で、魂の奇跡は何の役に立つか。(誤りで異端、贖いの神秘を軽視し、教会の習慣に反する。)
- 教会戒律の任意: 教会の聖典は善いが、望む者が守ればよい。主の法だけを守る。(異端で不敬、ルター的誤り。教会の戒律遵守を否定。)
- 世界の終わり予言: 世界の終わりは12年後。(狂気的。)
- 完璧者の免罪: 完璧な者は断食、祈り、服従に縛られず、教会の戒めに服従する必要がない。(偽りの完璧さで異端、ビギノ派の誤りと比較。)
- 神の意志の放棄: 思考の停止と神への完全放棄は、自由意志を否定し、偽りの完璧さを教義化。(異端でルター的、フス派の誤りと結びつき、教会の戒律を無効化。)
これらは全体として「狂気的(loca)」と評価されるものが多く、異端審問所はこれらをルター主義や中世異端と結びつけ、教会の権威を脅かすものとして非難した。
これらはフス派やビガルド、ベギン派、ルターの誤りと比較され、自由意志否定や完璧さの偽りを指摘された。エラスムスの影響が強く、教会仲介の否定がプロテスタント改革と関連づけられた。
一次資料(Lu Ann Homzaの編訳書『The Spanish Inquisition, 1478–1614: An Anthology of Sources』やAntonio Márquezの『Los Alumbrados』)に、全48個の完全版が収録されている。
主要人物
- イサベル・デ・ラ・クルス: 最初の指導者の一人。1524年逮捕、1529年のauto de feで判決。48の異端リストの基。
- ペドロ・ルイス・デ・アルカラス: イサベルと並ぶ初期リーダー。エスカロナの核。裁判で教義が明らかに。
- ピエドラヒタのベアタ (マリア・デ・サント・ドミンゴ): 1511年対話主張で注目。アルンブラドスの先駆け。
- ガスパル・ベドヤ: パストラナのグループリーダー。
- フランシスカ・ヘルナンデス: サラマンカのベアタ。1529年逮捕、信者をルテラノスとして告発(マリア・デ・カサージャ、ミゲル・デ・エギアなど)。
- フェルナンド・メンデス: セビリアの司祭。贅沢実践、恍惚の踊り、異常贖罪で知られ、裁判前に死亡。
- フアン・デ・オルミヨスとフランシスコ・デ・オカーニャ: 修道士。フランシスコ・デ・オスナの影響。
- イグナチオ・デ・ロヨラ: 1527年サラマンカで同情疑い、警告のみ。
- テレサ・デ・アビラ: 疑われたが追及なし。
- ミゲル・デ・モリノス: 17世紀。『霊的指南』が類似で疑い。
- ソル・マリア・フスタ・デ・ヘスス: 17-18世紀テネリフェのフランシスコ会尼僧。モリニズム実践、病気の移し替え癒しでシャーマン似。魔術・不適切関係告発、列聖中断。
イグナチオ・デ・ロヨラの関与
イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignatius of Loyola、当時はÍñigo López de Oñaz y Loyolaと名乗っていた)は、16世紀初頭のスペインにおいてアルンブラドスとの関連が疑われ、スペイン異端審問所から複数回取り調べを受けた。しかし、彼自身はアルンブラドスのメンバーではなく、直接的な関与の証拠は存在せず、無実を主張し続けた。これらの事件は、彼の霊的形成やイエズス会設立の背景に影響を及ぼし、後の『霊操』(Spiritual Exercises)の内容に反映されたとされる。主要な事件は2回あり、以下に時系列で記述する。
最初の事件:アラハ(Alcalá de Henares)での逮捕(1526年頃)
背景と経緯: 1526年、イグナチオはマニレスでの霊的体験後、神学とラテン語の学習のためアラハ大学に入学した。そこで、フランシスコ会改革派の影響を受けた女性たち(例: レオノール・デ・タベルナ)と出会い、これらの女性はすでに異端審問所からアルンブラドスの疑いで監視されていた。彼女たちはグノーシス主義的な神秘主義(神との直接合一、秘跡の否定など)を信奉し、アルンブラドスの特徴を示していた。
出来事: イグナチオは正式な神学資格を持たずに街頭で説教を行い、3人の女性が彼の前で恍惚状態(ecstatic states)を呈した。具体的に、1人は意識を失って倒れ、2人は地面を転がり、3人は痙攣・震え・汗を伴う苦悶の状態となった。これにより異端審問所の注目を集め、イグナチオはアルンブラドスの影響下にあるとして逮捕・尋問された。彼の教えが「狂気的な神秘主義」を助長していると疑われた。
結果: 約2か月間の投獄の後、釈放されたが、説教の禁止と監視下での生活を命じられた。この経験はトラウマとなり、イグナチオはスペインを離れ、フランスのパリ大学へ移る決意を固め、同地で「イグナチオ・デ・ロヨラ」の名を採用した。
2番目の事件:サラマンカ(Salamanca)での召喚(1527年)
背景と経緯: アラハ事件の直後、1527年にイグナチオはサラマンカ大学でさらに学業を続けた。ここでもアルンブラドスの影響を受けた人物(例: フランシスコ会修道士や神秘主義者)と接触し、友人関係を築いていた。当時、異端審問所はアルンブラドスの異端を積極的に取り締まっており(1525年に48の異端主張を公式宣言)、イグナチオの霊的指導が同情的に見なされた。
出来事: 教会委員会(ecclesiastical commission)からアルンブラドスへの「同情(sympathy)」の疑いで召喚された。具体的な告発内容は、彼の瞑想実践や神との直接対話の教えが、アルンブラドスの「魂の完全合一」主張と類似している点であった。また、伴侶たち(後のイエズス会メンバー)も巻き込まれ、一時的に投獄された。
結果: 厳しい尋問の末、証拠不十分で無罪放免され、単なる「警告(admonition)」で終わった。しかし、これによりイグナチオは再びスペインを離れ、パリへ向かうことを余儀なくされた。
全体の影響と評価
これらの事件は、イグナチオの生涯における異端審問所の厳しさを象徴し、彼の信念が教会の主流から逸脱していると見なされやすいことを示す。ただし、後世の評価では彼の教えは正統キリスト教の枠内に収まるとされ、アルンブラドスの極端な「静寂主義」(外部崇拝の否定)とは対照的に、祈りや秘跡を重視した点が強調される。17世紀の神秘主義者ミゲル・デ・モリノスのようにアルンブラドスの影響を疑われた人物は他にも存在したが、イグナチオの場合、早期の釈放が彼の使命継続を可能にした。詳細な一次資料として、イグナチオの自伝『イグナチオ・デ・ロヨラ自叙伝』(Autobiography of St. Ignatius)でこれらの出来事が記述されている。
迫害と裁判
アルンブラドスはスペイン異端審問所の初期犠牲者で、1525年の勅令以降、逮捕・投獄・鞭打ちが相次いだ。1524-1529年のグアダラハラ・エスカロナ裁判で48命題列挙。1529年トレドの集団が鞭打ち・投獄。フランシスカ・ヘルナンデスの告発でエラスムス主義者巻き込み(フアン・デ・ベルガラの兄弟ベルナルディーノ・トバルなど)。処刑は少なく、短期投獄が主。コンベルソ・モリスコが標的で、富没収の動機も指摘される。1623年セビリア勅令で76誤り列挙、恩赦促すも抑圧継続。17世紀半ばまで存続。
ヨーロッパ影響:1623年勅令がフランスに伝播、薔薇十字団と混同。1625年ピカルディのピエール・ゲラン(ゲリネ)がイルミネ疑いで逮捕・無罪。噂は17世紀継続。