アル・ジャバルティー
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ジャバルティーはオスマン帝国の支配下にあったエジプト州の州都カイロにおいて、有力なウラマーの家柄に生まれた。ジャバルティー家は名前の通りジャバルト地方(現在のソマリア北西部からエチオピアにかけての地域)に起源を持ち、ジャバルティーの6代前にあたる人物がカイロに移住し[1]、その後もアズハル学院のジャバルト地方出身者寮において代々シャイフを務めていた。
ジャバルティーの父ハサンもハナフィー学派の法学者で、エジプト州総督やマムルークとも深い交友を持つカイロの名士であり、商売も手がけていた。学問的にもイスラーム諸学の他に数学・天文学・暦法・書道・度量衡を修め、好奇心に満ちた当代きっての学者であったという。ジャバルティーが20歳の時ハサンは亡くなるが[2]、父の知識や人脈、遺産を引き継いだことが後の歴史叙述に生かされることになる。
1798年、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際には彼は40代の初めであり、アブヤールに隠退していたのを特に招かれ、他の名士とともにディーワーン(参政府、諮問委員会)の一員となり、重要な役割を果たした。1805年、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をアズハル学院の長老たちが願い出た際には、ムハンマド・アリーの残忍性を憎むジャバルティーは、その請願書への署名を拒否している。
